2009年09月28日

NHK大河ドラマ『天地人』第39回「三成の遺言」

妻夫木聡 「愛のある現場」に涙、『天地人』スタジオ撮影終了

噂の深層 小栗旬株急落

NHK大河ドラマ天地人」原作・火坂雅志、脚本・小松江里子第39回「三成の遺言」・9/27

天下分け目といわれる関ヶ原の戦い(1600年9月)、このあと徳川幕府を開くのに、家康は2年半もの月日を必要としました⇒江戸幕府を開く(1603年2月)。日本の2/3の大名が豊臣方だったのです。

慶長5年(1600年)9月

最上攻めから撤退した、直江兼続妻夫木聡)は会津へ戻る。

一方、石田三成(小栗旬)は、徳川家康(松方弘樹)の陣でせん議を受ける。

そこで、石田三成(小栗旬)は、「強い者、勝つ者が常に正しいと限らぬ・・そうであろう、小早川秀秋」「負けるは時の運、されど大義は我にあり」、と言い放つ。

「わが挙兵は太閤殿下のご遺志を継ぎ豊臣家の安泰を図るためである。大老の身でありながら繊毛の限りを尽くし豊臣家をないがしろにした。これを正さねば天下が乱れるは必定、小早川秀秋の卑しき裏切りにより、勝つべき戦に勝てなかったのは痛恨の極みなれど事とここに至っては是非におよばぬ。されど不義のやからが長く栄えることはなしと思え。我に味方せし諸将はいずれも豊臣家への忠義心からそうしたまで。寛大なるご処分をくだされますように。罪は私がかぶるまで。」

直江兼続妻夫木聡)が竹松(加藤清史郎)ら子どもたちとお船常盤貴子)からの手紙のことで話をしていると、初音(長澤まさみ)が訪ねてくる。そして、三成(小栗旬)が京の六条河原で斬首されたことを知らされる。

そのころ、家康(松方弘樹)は戦後処理を進めていた。

西軍の諸将に処分が下され、さらに豊臣家も減封(げんぽう)される。西軍の総大将だった毛利輝元も1/4の36万石に。真田正行・幸村親子も減俸。豊臣秀頼も220万石から65万石に。

福島正則(石原良純)小早川秀秋上地雄輔)らはこの処分に異を唱えるが、家康(松方弘樹)は意に介さない。

翌慶長6年(1601年)6月、上杉景勝北村一輝)に上洛の命が下る。

徳川家康(松方弘樹)を討たなかったことを悔やむ上杉景勝北村一輝)に、直江兼続妻夫木聡)は、天下に義を守ること、そのためにこそ生きられよ、と説く。

直江兼続妻夫木聡)と実頼(小泉孝太郎)は名代として上洛。

上洛した直江兼続妻夫木聡)のもとに福島正則(石原良純)が現れる。

福島正則(石原良純)は、石田三成(小栗旬)と会って、石田三成(小栗旬)が誰よりも豊臣家のことを考えていたことを知ったと告白する。

「わしは間違っていたのかもしれぬ。わしが戦ったのは豊臣のため。ひとえに秀頼ぎみのことを思ってのこと。石田三成(小栗旬)は無礼にも秀頼君を人質にした・・そう信じて疑わなかった。しかし戦が終わってみればまことに豊臣家のことを考えていたのは、石田三成(小栗旬)であったのかもしれん。石田三成(小栗旬)

我らは同志であった、殿下のご恩に報いるため命をささげる覚悟であった、その気持は変わってないのだな・・ならば思い残すことはない。秀頼君を頼んだ。徳川のためではなく豊臣のために生きてほしい

と話した。わしもつくづくアホウだ、こうなってしまうまで、石田三成(小栗旬)の真意をはかれんとは・・」

悔やむ福島正則(石原良純)小早川秀秋上地雄輔)にも会ってほしい、と直江兼続妻夫木聡)に伝える。

直江兼続妻夫木聡)は小早川秀秋上地雄輔)のもとを訪ねる。

小早川秀秋上地雄輔)は三成(小栗旬)から逃がすよう助けをこわれたことを明かした。

その際、三成(小栗旬)から、生きて我らの正義を後世に伝えよ、との直江兼続妻夫木聡)への言づけがあったことも伝える。

石田三成(小栗旬)

「このままではこの国の行く末は危うい、戦に負けとらわれの身となった今でも気がかりでなりませぬ。今ならまだ間に合います、この流れを変えられます」

小早川秀秋上地雄輔)は

「もう勘弁してくだされ、わしはそのような器ではない・・」

石田三成(小栗旬)

「責めるつもりはございませぬ。ここをお開けくださらぬか。正義の戦はできぬともここを開けることくらいできましょう、毛利さまと戦います・・できぬならばひとつだけことづけを頼みます・・直江兼続妻夫木聡)へお伝えください

なにとぞ、生きて、我らの正義を後世に伝えよ・・と。」

三成(小栗旬)の言葉をかみしめた直江兼続妻夫木聡)は、家康(松方弘樹)との対面に臨むのだった。

大河ドラマ 天地人

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NHK大河ドラマ『天地人』小早川秀秋:(上地雄輔)

NHK大河ドラマ天地人

小早川秀秋上地雄輔)木下家定(豊臣秀吉の正室・高台院の兄)の5男として生まれる。叔父である秀吉の養子になり羽柴秀俊と名乗る。その後、秀吉の命で小早川隆景の養子として小早川家に入り秀秋と改名する。

「関ヶ原の戦い」では西軍に参戦するが、合戦途中に東軍への加担を決意、西軍を攻撃、東軍大勝の立役者となった。この戦功により、備前・美作の55万石を与えられ備前岡山城主となる。

大河ドラマ 天地人

小早川秀秋(こばやかわひであき、1582年 - 1602年12月1日)は、安土桃山時代から江戸時代初頭の大名。木下家定の子で、豊臣秀吉の正室・高台院の甥にあたる[1]。正室は毛利輝元の養女(実父は宍戸元秀、祖母は毛利元就の長女)。従三位、権中納言。筑前を領有したため筑前中納言、左衛門督を兼ねたことから、小早川金吾、金吾中納言とも称された。関ヶ原戦い以後、秀詮(読みは「ひであき」と変わらない)と改名するが秀秋と表記されることが多い。

● 出生から大名へ

木下家定(豊臣秀吉の正室高台院の兄)の5男として生まれる。母は杉原家次の娘。幼名は辰之助。元服時の初名は木下 秀俊(きのした ひでとし)。天正13年(1585年)、羽柴秀吉の養子になり羽柴秀俊と名乗る。天正17年(1589年)、病死した豊臣秀勝の旧領地・丹波亀山10万石を与えられる。文禄元年(1592年)、従三位・権中納言に叙任。

文禄3年(1594年)、秀吉の命にて小早川隆景の養子として小早川家に入った[2]。官職は中納言だったが、元服時に受けた官位「左衛門督」の唐名「執金吾」とあわせて「金吾中納言」と称された。文禄4年(1595年)、豊臣秀次事件に連座して丹波亀山を没収される。同年に養父・隆景が隠居し、その領地であった筑前、筑後・肥前の一部30万7000石を継承し、筑前名島城主となった。小早川領継承にあたっては豊臣政権から補佐役として派遣された山口宗永が隆景家臣の鵜飼元辰らから引き継ぎを受け、また太閤検地を実施して領内石高が定められた。

● 慶長の役

慶長2年(1597年)2月1日、秀秋は秀吉より朝鮮出兵の命令を受け、5月22日に大阪より筑前へ帰り、6月29日に名護屋を発ち、7月17日に釜山へ上陸している。なお、秀秋は朝鮮在陣期に名乗りを秀俊から秀秋と改名している。慶長の役の侵攻期には留守番部隊の大将として釜山及び周辺を1万人で守備し、小早川勢が梁山倭城の普請を担当した。12月からの蔚山城の戦いでは、小早川勢を率いる山口宗永が西生浦倭城経由で明の大軍に包囲された蔚山倭城の救援に向かった。1598年1月1日付で籠城戦中の蔚山倭城から加藤清正が発した救援依頼の書状の宛先の1人が秀秋となっているが、同1月付の小早川勢関係の秀吉宛書状の発信者及び秀吉書状の宛先は山口宗永となっている。帰国途上の秀秋が直接この戦いに関わっていたのかは不明である。秀秋帰国後も小早川勢は500人ほどの残留部隊が寺沢正成の指揮下で釜山の守備に就いたが5月中には帰国している。

秀秋は蔚山城の戦いに先立つ慶長2年(1597年)12月4日付の秀吉朱印状で帰国と上洛を命ぜられており、翌年1月29日に朝鮮より帰国の途につき、その後越前北庄15万石への転封を命ぜられた。一説では初陣で自ら槍を手に敵将を生け捕りにするなど活躍するが、本来、大将である秀秋は釜山城を守備すべきであったものの、蔚山倭城の救援に向かったことが軽率な行動と批判されたとも言われるが、前述の通り帰国命令は戦いに先立って発令されている。九州の旧小早川領は豊臣直轄地となり石田三成が代官に派遣され、後に浅野長政も代官に加えられた。またこの処置は石田三成の讒言によるとも言われるが定かではない。しかし、慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去した翌年初頭に北庄転封は取り消され、旧領の筑前名島へ復帰した。この時徳川家康から取り成しを受けたとされるが、秀吉の死後になって秀秋の復領に口添えしたのみで、実際には取り成してはいない。[要出典]慶長4年(1599年)1月より旧領に復帰した秀秋は農民保護対策を打ち出し、朝鮮征伐で疲弊した農村の復興に努めるが2年ほどで関ヶ原を迎えることになる。また、石高の大幅減封となった越前北庄転封を期に旧隆景系家臣の多くが秀秋の元を去っており、小早川家継承時に豊臣政権より派遣されていた補佐役の山口宗永もこのとき加賀大聖寺の独立大名に取り立てられている。

● 関ヶ原の戦い

この節の内容に関する文献や情報源を探しています。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に参戦。伏見城攻略戦に参加して戦功を挙げたものの、この戦功を三成が認めなかったため激怒したとも言われている[要出典]。また一説に、当初から東軍と内通していたとも言われる。東軍として姫路城に入城する予定だったのが兄の姫路城代に断られて、今度は伏見城に入城しようものの城将の鳥居元忠にも拒絶されたためにやむなく西軍に加わったとされる。現在に残る書状として、三成から関白の地位を約束され西軍への同心を促すもの、黒田長政と浅野幸長の連名による「我々は北政所(高台院)様の為に動いている」と書かれたものの二通ある。

秀秋の行動に不審を感じていた石田三成・大谷吉継らは、西軍勝利の暁には豊臣秀頼が成人するまでの間、関白職への就任と、上方2ヶ国の加増を約束するなどして西軍への残留工作を行っている。決戦当日、秀秋は松尾山に1万5000[3]の大軍を率いて布陣した。この時、松尾山には西軍の一部将兵が入っていたが、秀秋は軍勢の数にものを言わせてこれらを追い出して松尾山に陣を敷いている(この時点で東軍に加わったとも考えられる)。また、秀秋の松尾山占拠によってラインが分断される事を三成が危惧したため関ヶ原での戦闘が始まったという説がある。

秀秋の心は東軍にあったとされるが、午前中の戦況は西軍有利に推移しており、東軍参加を躊躇したという説と、徳川秀忠が3万8千の大軍を率いて関ヶ原に向かっていたが、一向に現れないことに不審を抱き参戦しなかったという説もある。あるいは単に攻撃に出るタイミングを見計らっていただけなのかもしれない。この時既に小早川隊には家康から監視役として奥平貞治が派遣されており、東軍への寝返り自体は戦う前から確定していたといえる。『黒田家譜』では戦前に東軍への内通を約束しながらその動きを見せない秀秋に対し、家康が苛立つ描写が見られる。

何度も使者を送って攻撃命令を下すものの、軍を動かさない秀秋に痺れを切らせた家康は、秀秋の陣へ威嚇発砲させた。それに動揺した秀秋はついに東軍への加担を決意、松尾山を下って西軍の大谷隊を攻撃したとされる。この通説について現代の実地調査では、地理的条件や当時使用されていた銃の銃声の大きさや、現場は合戦中であり騒々しいことから推測すると、秀秋の本陣まで銃声は聞こえなかった、もしくは家康からの銃撃であるとは識別できなかった可能性が高いことも指摘されている[4]。秀秋の最終的な判断に関しては、秀秋の腹心である平岡頼勝、稲葉正成ら親徳川派武将の存在も影響していたと見られる。

なお、小早川隊で先方を務める松野重元は主君の裏切り行為に納得できず攻撃に反対・離反した。

突然の裏切りだったが、小早川隊の裏切りを予測していた大谷隊は予備兵力600や配下の平塚・戸田隊でこれを迎撃。数に任せて攻め込んだ筈の小早川隊は圧倒的兵力差にも関わらず無様な遁走を演じ、3度も大谷隊に追い立てられたという。しかし、小早川同様東軍と内通していた脇坂安治、赤座直保ら西軍の諸将が次々と寝返りに及び、平塚・戸田両隊が壊滅。大谷隊も遂に支えきれず敗走し、大谷吉継は自害した。なお、脇坂ら4将は元々小早川隊の内応に備え配置されていたが、小早川隊が寝返り後これらの部隊を無視し真っ先に大谷隊に攻め込んでいることから、これらの武将も東軍同様小早川隊と連絡を取り合っていたと考える方が自然である。

この参戦により大勢は決し、夕刻までに西軍は壊滅、石田三成は大坂を目指し伊吹山中へ逃亡する。

● 岡山藩主

関ヶ原本戦の終了後、家康の命により脇坂ら4将と共に三成の父である石田正継の守る佐和山城に攻撃を仕掛け激闘の末、これを落城させる戦功を挙げている。戦後の論功行賞では宇喜多秀家領であった備前と美作に移封され、岡山藩55万石(50万石とも)に加増された。この頃から名乗りを秀詮(ひであき)と変え、岡山中納言と呼ばれた。

かくして、大封を得た秀秋は岡山城を改築し、以前の2倍の外堀をわずか20日間で完成させた。そして検地の実施、寺社の復興、農地の整備など急速な近代化を進めた。しかし、重臣の稲葉正成が出奔、村山越中が杉原重治を殺すという事件もおきている。そして、関ヶ原の合戦からわずか2年後の慶長7年(1602年)に死去。享年21(不定説あり)。無嗣につき、小早川家は断絶。これは徳川政権初の無嗣改易である。秀秋の死後、小早川家の旧臣は関ヶ原での裏切りを責められたため、仕官先がなかったと言われることもあるが、事実ではない[6]。法名:瑞雲院秀巌日詮。墓所:岡山県岡山市の瑞雲寺。

また、秀秋に羽柴秀行という子がいたとの説もある。それによると秀秋の死後に側室から秀行が生まれ、秀秋の兄・木下勝俊に養われたという。そして、子孫は備中足守藩木下家の家臣となり、小早川氏の旧姓である土肥氏を名乗ったという。

● 死因

21歳という早すぎる死因として、様々な説があるが推測の域を出ない。また、同年同日同所で兄弟2人(木下俊定、木下某)も死亡したという記述が『舜旧記』(神龍院梵舜が記した日記)にある。某を秀規とする説があるがこれは秀規は大坂の陣で大坂城に入城し、秀頼に殉じているため史実と異なる。

暗殺説も存在する。一方で、巷では関ヶ原の戦いで自害に追い詰められた大谷吉継の祟りではないかと噂された。上述の備前軍記によると、鷹狩に出かけたとき、気に食わない農民を手討ちにしようとして、その農民の抵抗にあい、股間を蹴り上げられて死亡したと言われる。

なお小早川家は断絶したが、明治になって再興の勅命(毛利家からの願出によると思われる)が下り、毛利本家から毛利三郎が小早川家に入ることで再興された。

● 人物

優柔不断かつ暗愚な武将として現代に至るまで評されることが多いが、これは関ヶ原での裏切りによる後世の印象が大きいことによる。小早川秀秋のことを、裏切ったというだけで織田信雄以下の暗君だと結論づけている文献もあり、「裏切中納言」などと感情的に非難されることもあった。しかし、裏切りが必ずしも成功するわけではなく、1万5600人もの大兵力を率いていた秀秋の寝返りによって東軍の勝利を決定づけたこと、更に戦後その功績を家康に認められ備前岡山に大封を得たことなど、善悪はどうあれ秀秋が関ヶ原の戦いの趨勢を決めた重要人物であったことに疑問の余地は無い。その「裏切り」にしても、伏見城攻め後に家康に詫び状を出していること、戦術的要地である松尾山を占拠していた西軍を追い出してそこに陣を布いたこと、関ヶ原の合戦直前に東軍の福島正則と書簡のやり取りをしていることなどから、関ヶ原の戦いの前に既に東軍に与していたという説もある。西軍首脳の大谷吉継も松尾山の小早川隊を囲むようにして脇坂・朽木・小川・赤座ら4将を配置しており、秀秋は西軍側からもその去就が疑われていたと推察される。

秀秋が後世に至るまで蛇蝎のごとく嫌われる理由としては以下の点があげられる。

土壇場での寝返りによって西軍を敗北させたこと。
大谷吉継、戸田勝成、平塚為広の奮戦との対比によるイメージの悪さ。
豊臣家を守る藩屏としての役割を期待される立場でありながら、後に豊臣家を滅ぼすことになる徳川家康に味方したこと。
戦後すぐに夭折し小早川家も廃絶、結果裏切り者の汚名を返上する機会が与えられなかったこと。
関ヶ原での裏切りにより後世に悪名を残したものの、秀秋は初陣である慶長の役の蔚山城の戦いでは、敵に包囲された加藤清正を救出するなど大きな武功を上げ、備前岡山では家老の補佐があったとはいえ無難な統治手腕を発揮している。他の兄弟を差し置いて秀吉の養子になり、小早川家を相続しているという事実からも、秀秋が暗愚であったという通説に疑問を呈する研究者も少なくない。そのような実績の反面、筑前太守であった頃の行跡は不品行で[7]、家臣から度々の諫言を受けると逆上して手討ちにしたり、実際に秀秋の暗愚を見放して小早川家を去った重臣も居たなど、秀秋が当時の共通認識である「胡乱の人」という評判を裏付けるような悪行を行っていたという記録が残っているのも事実である[8]。秀秋に対する実証的な研究はまだ過渡期であり、今後一層の成果が期待されている。

日本史上の一大転機である関ヶ原の戦いのキャスティング・ボートを握ったことから、秀秋は歴史小説やテレビドラマなどのフィクションで、重要な役柄を与えられることが多い。それら創作物の中での秀秋の扱いは作品ごとに様々であるが、若年にして大封を得て戸惑い、信頼できる有能な家臣も居ずに東西両軍の間で右往左往するといった姿で描かれる傾向がある。司馬遼太郎の『関ヶ原』では、通説の暗愚で優柔不断な小早川秀秋像をそのまま踏襲するような描写がなされた。隆慶一郎原作、原哲夫作画の『影武者徳川家康』では、暗愚で優柔不断なだけでなく、利己的で冷酷かつ極めて幼稚な人物として登場した。NHK大河ドラマ『功名が辻』では高台院に、『天地人』では直江兼続・上杉景勝に悩みを打ち明けて、身の振り方を尋ねている描写があった。

東京国立博物館には秀秋所用と伝わる「猩々緋羅紗地違い鎌模様陣羽織(しょうじょうひ らしゃじちがい がまもよう じんばおり)」(重要文化財)が所蔵されている。猩々緋とは、能「猩々」で使われる面の顔色の様に鮮やかな緋色のことで、桃山時代に南蛮貿易によってもたらされ生地としてしばしば用いられた。デザイン化された交差した大鎌をアップリケとして大胆に用いており、当時の武将の装束をよく今に伝える優品である。

小早川秀秋 - Wikipedia

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NHK大河ドラマ『天地人』福島正則(石原良純)

NHK大河ドラマ天地人

福島正則石原良純):母が秀吉の叔母であったことから幼少より秀吉に仕えた武闘派の武将。加藤清正の盟友で、北政所を強く尊崇していた。会津の上杉討伐に従軍するが、上方で三成が挙兵した知らせを受けて東軍として参戦。「関ヶ原の戦い」後は安芸(あき)広島と備後(びんご)鞆(とも)49万余石の大封(たいほう)を得、広島城の城主に栄転する。

家康・秀頼の会見を取り持つなど、江戸幕府への忠勤に励む一方、豊臣家を主筋(しゅすじ)に立てることも忘れなかった。
大河ドラマ 天地人

福島正則(ふくしままさのり)は安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名である。

秀吉の子飼い

永禄4年(1561年)、福島正信の長男として現在の愛知県海部郡美和町で生まれる。

母が豊臣秀吉の叔母だったため、その縁から幼少より小姓として秀吉に仕え、天正6年(1578年)に播磨三木城の攻撃で初陣を飾る。

天正10年(1582年)の山崎の戦いの軍功で500石を知行し、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いのときは一番槍・一番首として敵将・拝郷家嘉を討ち取るという大功を立てて賞され、賤ヶ岳の七本槍の中でも突出して5000石を与えられた(他の6人は3000石)。その後も秀吉の主要な合戦の多くに参戦し、天正15年(1587年)の九州征伐ののち、伊予国今治11万石の大名に封ぜられる。

文禄元年(1592年)からの文禄の役では五番隊の主将として戸田勝隆、長宗我部元親、蜂須賀家政、生駒親正、来島通総などを率いて京幾道の攻略にあった。また年末には京幾道竹山の守備についた。翌年、講和交渉の進展により南部布陣が決まると巨済島の松真浦城や場門浦城の守備を担当し、文禄3年(1594年)10月に朝鮮水軍を率いる李舜臣が場門浦を攻撃した時(場門浦海戦)には正則自ら海水に下りて指揮を行い、敵船を焼き討ちするなどの反撃でこれを撃退した(征韓録)(参謀本部「朝鮮役」より)。

文禄4年(1595年)に尾張国清洲に24万石の所領を与えられた。

関ヶ原の戦い

しかし、武勇に優れた正則は文治派の石田三成らと朝鮮出兵を契機としてその仲が一気に険悪になり、慶長4年(1599年)の前田利家の死後、朋友の加藤清正と共に三成を襲撃するなどの事件も起こしている。この時は徳川家康に慰留され襲撃を翻意したが、その経緯から家康の昵懇大名の一人となる。

また、姉の子で正則の養子になっていた正之と家康の養女・満天姫との婚姻を実現させた。これは諸大名の私婚を禁じた秀吉の遺命に反するものだったが、正則はこの婚姻こそが豊臣・徳川の将来の和平に繋がると確信していた。

慶長5年(1600年)の会津の上杉討伐には6000人を率いて従軍。その途中、上方で三成が挙兵した報を受けての小山評定では、家康の意を受けた黒田長政にあらかじめ懐柔されていた正則が三成挙兵に動揺する諸大名の機先を制して、いち早く家康の味方につくことを誓約し、反転して西上する方針が決定する。清洲から美濃方面に進軍し、西軍の織田秀信が守る岐阜城攻めでは池田輝政と先鋒を争い、黒田長政らと共同で城を陥落させる。

関ヶ原の戦い本戦では当初石田勢との対陣を希望したが結局叶わず、更にこれまで幾多の戦いで先陣を務めたにも関わらず、井伊・松平らに抜け駆けされ激怒する。彼らの挑発に乗せられる形で戦端が開かれ、宇喜多勢1万7000と激闘を繰り広げた。宇喜多秀家隊の前衛8000を率いた明石全登は音に聞こえた勇将で、福島勢は一時500メートルあまりも押しまくられ、壊滅寸前に追い込まれる。血相を変えた正則自身が叱咤激励し、さらに東軍各部隊が次々と援軍に現れ、宇喜多隊を3方向から猛烈に攻め立てる。そのため東軍の宇喜多隊攻撃部隊は、膨大な数の被害を出し続けるものの、なんとか宇喜多隊の進撃を防ぎきることに成功する。

やがて小早川秀秋の背信を機に西軍の戦線は次々に崩壊した。宇喜多隊は、開戦時からずっと全力で戦っていたため疲労が頂点に達し、6万以上の東軍部隊の集中攻撃を持ち堪えられなくなり、壊滅した。その結果福島正則隊らは宇喜多勢を打ち破ることに成功した。こうして東軍の勝利に貢献第一と目された正則は西軍総大将・毛利輝元からの大坂城接収にも奔走し、戦後安芸広島と備後鞆49万8200石の大封を得た。

江戸時代

慶長6年(1601年)3月に芸備に入封した正則は早くも領内を巡検するとともに、検地で石高の再算出を行った。家臣への知行割も事実上の給米制とし検地の結果を農民に公開した上で実収に伴った年貢を徴収して負担を少なくするといった善政を布き、意外な地方巧者ぶりを発揮している。また領内の寺社の保護にも熱心であり、慶長7年(1602年)には厳島神社の平家納経を修復させたことが知られている。この治世で、除封直前の石高は51万5800石に達している。

慶長9年(1604年)からの江戸幕府による諸城修築の動員に参加して忠勤に励む一方、豊臣家を主筋に立てることも忘れなかった。慶長16年(1611年)3月に家康が秀頼に対し二条城での会見を迫った時には、いまなお豊臣家が主筋と自負して強硬に反対した淀殿を加藤清正や浅野幸長とともに説得し、秀頼の上洛を実現させた(正則自身は病と称して会見に同席せず、枚方から京の街道筋を1万の軍勢で固めて変事に備えた)。

この会見直後に清正や浅野長政・幸長父子、池田輝政といった朋友の豊臣恩顧大名が相次いで死去し、正則自身も慶長17年(1612年)に病を理由に隠居を願い出る。しかしそれも許されずに飼い殺しの状態に置かれた正則は大坂の陣では秀頼に加勢を求められても拒絶し、大坂の蔵屋敷にあった蔵米8万石の接収を黙認するに留まった。これを知った幕府には東軍への従軍も許されず、江戸留守居役を命じられた。豊臣氏の滅亡を機に羽柴姓も捨てた正則は、ひたすら幕府への恭順を余儀なくされる。

改易と晩年

家康死後まもなくの元和5年(1619年)、台風による水害で破壊された広島城を無断でほんの少しだけ修理したことが武家諸法度違反に問われる。正則は2ヶ月も前から届けを出していたが幕府からは正式な許可が出ていなかった。しかも修繕したのは雨漏りする部分をやむをえず直しただけという。江戸参勤中の正則が謝罪し、修繕した部分を破却するという条件で一旦は沙汰止みになったものの破却が不十分であることを咎められ、安芸・備後50万石を没収、信濃国川中島四郡中の高井郡高井野藩、越後国魚沼郡、4万5000石に減封される。

これは過激な武将である正則の統制策とする理解が一般的だが、家康死後の二元政治廃止に伴う本多正純と土井利勝らの幕府内権力争いにまきこまれたという説も提示されている。正純が受け取った届出を利勝らが正純の信頼を失墜させるためわざと放置していたと言うものである。最終的に改易を強行したのは2代将軍・秀忠だが、利勝や正純ら幕府首脳はむしろ正則の改易が諸大名の反抗に繋がることを恐れ、処分に及び腰であった。

元和6年(1620年)に嫡男・忠勝が早世したため、正則は2万5000石を幕府に返上した。寛永元年(1624年)、高井野で死去。享年64。

この際、家臣が正則の遺体を幕府の使者が到着する前に火葬したため(一説には正則が屈辱に耐えかね切腹したのを咎められるのを恐れこれを隠蔽するために急いで火葬にしたとも言われる)、福島家は残りの2万石も没収され、後を継いだ正則の子・正利は3000石の旗本に身分を落とすこととなった。

官職位階履歴

天正13年7月16日(1585年8月11日)、平正則として従五位下左衛門大夫に叙任。
慶長2年7月26日(1597年9月7日)、侍従に任官。羽柴の苗字も同時に拝領。
慶長7年3月7日(1602年4月28日)、豊臣正則として左近衛権少将に転任(時に、従四位下に昇叙か)。
元和3年6月21日(1617年7月23日)、豊臣正則として従三位に昇叙し、参議に転任。 同年11月2日、参議辞職。
なお「左衛門大夫」という官職はないので、恐らく五位の左衛門尉という意味だろうとされる(『福島正則』中公新書)。

人物・逸話

歴史小説などでは武勇に長けるが智謀に乏しい猪武者として描かれている。幼い頃に父親の桶屋家業を継ぐために修行していたとき、大人と喧嘩をして鑿で相手を殺害したという逸話もあるほどで、これらが一因しているといってもよい。
関ヶ原の戦いでは第一の武功を賞されたが、関ヶ原では度々それを投げ打つことも辞さない言動をしている。戦いに関連した次のような逸話・研究がある。
岐阜城を攻め落とした際には「某(それがし)の武功に代えても」の一言で城主・織田秀信の助命を嘆願した。その直後、家臣が徳川家の足軽に侮辱されて自害し、その上司である旗本・伊奈図書の切腹を正則が要求したときも「聞き容れられなければ城地を立ち去るのみである」と啖呵を切っている。
関ヶ原後に三成が捕えられた際に、三成の「脱出して再起を図ろうとする事こそ大将の心がけだ」との発言を聞き、「至極もっともなり、(戦場から脱出する事は)少しも恥辱にあらず」と賞賛したという。
武断派の印象が強いが、慶長6年(1601年)の検地で知行高498,000石だったのを元和5年(1619年)に515,000石まで増加させており、領主として行政面でも結果を残している。
自らはキリシタンではなかったが、清洲城主当時から一貫してキリシタン保護政策を堅持していた。宗教に対しては寛容な政策をとっていたとされる。
泥酔して家臣に切腹を命じ、翌朝になって間違いに気付いたがもはや取り返しがつかず、その家臣の首に泣いて詫びたという逸話もある。
酒席で、黒田家家臣母里友信に酒を無理矢理一気飲みさせ家宝の日本号をとられた話もある。
幕府の命で名古屋城の手伝普請に従事している際、「江戸や駿府はまだしも、ここは妾の子の城ではないか。それにまでコキ使われたのでは堪らない」とこぼし、清正に「お前は(家康の)婿殿だろう、我々のためにこのことを直訴してくれ」と迫った。清正が笑いながら「滅多なことを言うな。築城がそんなに嫌なら国元に帰って謀反の支度をしろ。それが無理なら命令どおりに工期を急げ」とたしなめ、その場は収まったという。
元和元年(1615年)大坂城の落城後、妙心寺の石川貞清のもとを訪れ面会した正則は、貞清から妙心寺内の土地の一部を譲り受けて海福院を建立し、死者の冥福を祈った。貞清は関ヶ原の戦いで西軍に与して戦後は茶人・商人となっていた人物で、その妻について石田三成の娘、大谷吉継の妹、真田信繁(幸村)の娘などの諸説がある。
家康が重病で死の床に就くと正則は駿府を訪れて見舞ったが、家康は「一度安芸に帰られるがよい。将軍家(徳川秀忠)に不服があれば、遠慮せず、兵を挙げられるが良い」と冷たく言い放った。御前を退出した正則は「今日までご奉公に努めて来たにも関わらず、あのような申されようは情けない限りだ」と嘆き、人目も憚らず泣いた。それを聞いた家康は「その一言を吐き出させるために、あのように言ったのだ」と安心したという。
かなりの恐妻家であったらしく、ある時は女性問題で嫉妬に狂った夫人(昌泉院)に薙刀で斬りつけられて、戦場では決して後ろを見せずと自負した彼もこれには逃げ出したと言う逸話が残っている

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posted by 天地人 at 02:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 『天地人』・キャスト
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