2009年11月29日

「坂の上の雲」第1話「少年の国」(11/29)

明治維新後、激動の時代を力強く生きた若者たちを描いた司馬遼太郎の同名小説をドラマ化。3年にわたって放送。

貧しい下級武士の家に生まれ日露戦争で活躍した軍人、秋山好古(阿部寛)・真之(本木雅弘)兄弟と、友人である俳人・正岡子規(香川照之)の3人を主人公に、明治の日本を鮮やかに描く・・脚本:野沢尚ほか

11/29(日)〜20時〜21時30分・NHK『坂の上の雲』第1話「少年の国」11/29

 260年続いた幕藩体制が倒れ、日本に近代国家が誕生した1868(明治元)年。四国・伊予松山の秋山家に5人目の男児が誕生。名を秋山淳五郎真之と名付けられた。明治維新後、松山藩の財政は底をつき、藩士の生活は困窮を極めていた。とりわけ大勢の子に養育費がかかる秋山家は悲惨だった。しかし、兄の信三郎好古は真之の誕生を誰よりも喜び、何かと面倒をみる。
16歳になった好古は、学費がかからない師範学校への進学を目指し、大阪に旅立つ。その後、上京し陸軍士官学校に入学した好古が帰郷。自らの仕送りで真之を中学に進学させるよう両親に申し出る。

数年後、真之(本木雅弘)の同級生で幼なじみの正岡升(のぼる・後の子規=香川照之)が中学を中退して大学予備門を目指すため上京。真之も東京で学びたいと思い始める。その願いは再び好古(阿部寛)によってかなえられ、真之は升の通う神田の共立(きょうりゅう)学校に入学する。
ある日、ふたりは英語教師の高橋是清(西田敏行)に誘われ、横浜の外国人居留地に出かける……。

あらすじ|スペシャルドラマ「坂の上の雲」

『坂の上の雲』登場人物
『坂の上の雲』★秋山真之(本木雅弘)

NHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』第2部(2010年秋)
NHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』第1部

<松たか子>結婚後、初登場「時間がかかった分、意味がある」 ドラマ「坂の上の雲」会見

坂の上の雲

1. スペシャルドラマ「坂の上の雲」

2. 坂の上の雲 -
3. NHK 松山放送局|スペシャルドラマ 坂の上の雲
4. 春や昔 ?「坂の上の雲」のファンサイト?
5. 「坂の上の雲」 作品紹介とあらすじ

★★★


世界の「新型」死者、1週間で最多の1000人超増

東山&佳乃、ともに真剣交際を認める
井上和香、戸次重幸と破局「仕事を最優先」
のりピー離婚へ…12日“直接会談”


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『坂の上の雲』登場人物

明治維新後、激動の時代を力強く生きた若者たちを描いた司馬遼太郎の同名小説をドラマ化。3年にわたって放送。

貧しい下級武士の家に生まれ日露戦争で活躍した軍人、秋山好古(阿部寛)・真之(本木雅弘)兄弟と、友人である俳人・正岡子規(香川照之)の3人を主人公に、明治の日本を鮮やかに描く・・脚本:野沢尚ほか

11/29(日)〜20時〜21時30分・NHK『坂の上の雲

海軍軍人:秋山真之(本木雅弘)

◆陸軍軍人:秋山好古阿部寛):秋山真之(本木雅弘)の兄。経済的な理由から陸軍士官学校へ入学し、その後陸軍大学校へ進学。日本陸軍に仏式の騎兵戦術を導入し「日本騎兵の父」と呼ばれる

◆俳人・歌人:正岡子規香川照之):秋山真之(本木雅弘)の幼馴染。帝国大学国文科に進学するも中退。新聞社へ入社し、小説や紀行文を執筆。短歌や俳句の革新を目指していたが志半ばに病没

◆子規の妹・正岡律菅野美穂):しんが強くて兄思い。秋山真之(本木雅弘)に思いを寄せていたが実ることは泣く、2度の結婚と離婚を経験する。
兄、子規が病に倒れると母とともに看病する

第1話「少年の国」11/29

NHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』第2部(2010年秋)
NHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』第1部

<松たか子>結婚後、初登場「時間がかかった分、意味がある」 ドラマ「坂の上の雲」会見

坂の上の雲

1. スペシャルドラマ「坂の上の雲」

2. 坂の上の雲 -
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4. 春や昔 ?「坂の上の雲」のファンサイト?
5. 「坂の上の雲」 作品紹介とあらすじ

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『坂の上の雲』★秋山真之(本木雅弘)

明治維新後、激動の時代を力強く生きた若者たちを描いた司馬遼太郎の同名小説をドラマ化。3年にわたって放送。

貧しい下級武士の家に生まれ日露戦争で活躍した軍人、秋山好古(阿部寛)・真之(本木雅弘)兄弟と、友人である俳人・正岡子規(香川照之)の3人を主人公に、明治の日本を鮮やかに描く・・脚本:野沢尚ほか

11/29(日)〜20時〜21時30分・NHK『坂の上の雲

◆海軍軍人:秋山真之本木雅弘):伊予松山の下級武士の家に生まれる。大学予備門を中退し、海軍兵学校に入学。連合艦隊の参謀となり、ロシア・バルチック艦隊を壊滅させる

本木雅弘:(もとき まさひろ、1965年12月21日 - )は、日本の俳優である。本名・内田 雅弘(うちだ まさひろ、旧姓・本木)。 愛称は一般的には「モックン」、(仙八先生での役名から)コアなファンからは「すばる」。埼玉県桶川市出身。血液型A型。 身長174cm、体重68kg。

ジャニーズ事務所所属の3人組アイドル「シブがき隊」のメンバー。所属事務所はジャニーズ事務所 → 個人事務所「メンズアート」(フロム・ファーストプロダクション傘下)。

1965年、埼玉県桶川市に誕生。この地で15代続く農家の次男(3人男兄弟の2番目)。父が農業高校時代の卒業文集を眺めていてたまたま目に留まった名(雅弘)を命名した。

1982年、アイドルグループ「シブがき隊」のメンバー「モックン」として、布川敏和(フックン)・薬丸裕英(ヤックン)とともに、シングル『NAI・NAI 16』で歌手デビューし、たのきんトリオに続く三人組のトップアイドルに。

浦和学院高等学校1年在学中の途中から明治大学付属中野高等学校定時制に編入するが2年の途中で中退した。

1988年シブがき隊を“解隊”後、俳優活動を開始。

1991年、篠山紀信撮影によるヘアヌード写真集『white room』を出版して話題に。また1992年、ソロとして初出場した第43回NHK紅白歌合戦(曲は井上陽水のカバー「東へ西へ」)で、コンドームを首からぶら下げた衣装や臀部を見せるパフォーマンスをサプライズで行い物議を醸した。

1995年、現在はエッセイストなどとして活躍する内田也哉子と結婚。本木が海外の映画賞を取材する番組に通訳として同行していて知り合い、彼女が17歳の時にプロポーズした。婿養子となり、2児を儲ける。岳父はロックミュージシャン内田裕也、岳母は女優の樹木希林。岳父が長年主催している「ニューイヤーロックフェスティバル」には直接・間接的に毎年協力している。

その後は俳優として本格的に活動し、映画『シコふんじゃった。』・大河ドラマ『徳川慶喜』など主演した作品がヒットする。

企画を自ら持ち込み、主演も務めた『おくりびと』が2009年にアカデミー賞外国語映画賞を受賞している。アカデミー賞のレッドカーペットではインタビューに流暢な英語で答えた。 この映画での活躍により2009年3月20日、埼玉県民栄誉章受章。

本木雅弘 - Wikipedia

2. 本木雅弘 : 人物情報 - 映画のことならeiga.com
3. 本木雅弘 Masahiro Motoki - JellyfishCafe ...
4. 本木雅弘 プロフィール | 本木雅弘 JellyfishCafe.com
5. 本木雅弘 オフィシャルウェブサイト www.from1-pro.jp

第1話「少年の国」11/29

NHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』第2部(2010年秋)
NHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』第1部

<松たか子>結婚後、初登場「時間がかかった分、意味がある」 ドラマ「坂の上の雲」会見

坂の上の雲

1. スペシャルドラマ「坂の上の雲」

2. 坂の上の雲 -
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5. 「坂の上の雲」 作品紹介とあらすじ

★★★


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2009年11月27日

NHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』第2部(2010年秋)

明治維新後、激動の時代を力強く生きた若者たちを描いた司馬遼太郎の同名小説をドラマ化。3年にわたって放送。

貧しい下級武士の家に生まれ日露戦争で活躍した軍人、秋山好古(阿部寛)・真之(本木雅弘)兄弟と、友人である俳人・正岡子規(香川照之)の3人を主人公に、明治の日本を鮮やかに描く・・脚本:野沢尚ほか

11/29(日)〜20時〜21時30分・NHK『坂の上の雲

◆第2部(2010年・第6話から第9話):南へと領土拡張を進めるロシアと日本との関係が緊張の度合いを増す中、真之(本木雅弘)と好古(阿部寛)は、それぞれ、海軍・陸軍で頭角を現していた。

一方、子規(香川照之)は吐血して以来、東京・根根岸の「子規庵」で長患いの床に。

律(菅野美穂)の献身的な看病を受けながら、新しい俳句の世界を作り上げようとしていた。

そんな中、明治政府はついにロシアとの開戦を決断する

◆第3部(2011年、第10〜13話)

ロシア・バルチック艦隊との決戦に向け、真之(本木雅弘)が連合艦隊「七段構えの戦策」を立案。

陸軍を率いる好古(阿部寛)は「日露戦争の関ヶ原」奉天合戦に挑む

・・

「どんな家に生まれても本人の努力があればあらゆる職に就ける」ことが現実になりつつあった明治時代。

律(菅野美穂

NHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』第1部(2009年)

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NHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』第1部

明治維新後、激動の時代を力強く生きた若者たちを描いた司馬遼太郎の同名小説をドラマ化。3年にわたって放送。

貧しい下級武士の家に生まれ日露戦争で活躍した軍人、秋山好古(阿部寛)・真之(本木雅弘)兄弟と、友人である俳人・正岡子規(香川照之)の3人を主人公に、明治の日本を鮮やかに描く・・脚本:野沢尚ほか

11/29(日)〜20時〜21時30分・NHK『坂の上の雲

◆第1部(2009年・第1話から第5話):伊予(愛媛県松山)に生まれた3人が東京で学び、生業を見つけるまでを描く

貧しい下級武士の家に生まれた真之(本木雅弘)は、兄・好古(阿部寛)の世話で上京。

先に上京していた幼馴染・子規(香川照之)とともに勉学に励む

真之(本木雅弘)の上京は、ほのかな思いを寄せる子規(香川照之)の妹・律(菅野美穂)との別れも意味していた。

伊予ー東京間を航路で5日、外国へ行くのと変わらない長旅の末に上京し、大学予備門に進学した真之(本木雅弘)だったが、文学にのめりこむ子規(香川照之)を見て「自分には何が出来る」と自問自答。

悩んだ末、大学予備門を中退し、海軍兵学校に入学、好古(阿部寛)とともに軍人の道を歩き始める



<松たか子>結婚後、初登場「時間がかかった分、意味がある」 ドラマ「坂の上の雲」会見

坂の上の雲

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5. 「坂の上の雲」 作品紹介とあらすじ

★★★

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2009年11月23日

NHK大河ドラマ『天地人』最終回第47回「愛を掲げよ」

NHK大河ドラマ:「天地人」の最終回視聴率は22.7%

NHK大河ドラマ天地人」原作・火坂雅志、脚本・小松江里子第47回「愛を掲げよ」11/22

1615年(元和元年)秋

上杉景勝北村一輝)と直江兼続妻夫木聡)は米沢へ戻る。

米沢は、直江兼続妻夫木聡)の改革が功を奏し、しだいに活気づいてきていた。

竹松から名を改めた景明(太賀)ら若い家臣たちは藩の財を高めようと改革案を練るが、その場で景明が病に倒れる。

直江兼続妻夫木聡)とお船常盤貴子)の看病のかいなく、景明は息をひきとる。

「くやしゅうございます・・いつかは私も父上のような紅葉の家臣になりとうございました・・」

翌年、年老いた徳川家康(松方弘樹)直江兼続妻夫木聡)と政宗(松田龍平)を呼び、秀忠(中川晃教)の指南役になってほしいと頼む。

「戦なき世において上杉のこざかしい理屈も政のよき指針となるからな・・」

直江兼続妻夫木聡

「わが愛と義がなんたるかはお教えすることはできます、されど、志とは、お貸しできるものにございませぬ」

徳川家康(松方弘樹)

「わしが果たせなかった父の役目をそなたが果たしてやってくれ・・頼む・・・」

徳川家康(松方弘樹)の子を思う心に感じいった直江兼続妻夫木聡)は、これを引き受ける。

一方、お船常盤貴子)は自分も役目が欲しいと考え、上杉景勝北村一輝)と直江兼続妻夫木聡)の許しを得て、玉丸(西山潤)の世話をするため江戸へ旅立つ。

家康が息をひきとり(享年75歳)、直江兼続妻夫木聡)は秀忠の指南役として江戸城に入る。

直江兼続妻夫木聡)は徳川の若い家臣たちにせがまれ、戦国の英傑たちの話を聞かせる。

1618年(元和4年)

やがて、直江兼続妻夫木聡)は私財を投じ、米沢初の学問所となる「禅林文庫」を創設し、政から身をひく。

そして、江戸へ向かった直江兼続妻夫木聡)はお船と再会し、二人で越後へ旅に出る。

懐かしい景色に感慨無量となる二人は、ともに夫婦として幸せだったことを確かめ合う。

米沢へ戻った直江兼続妻夫木聡)を、上杉景勝北村一輝)は峠の岩場へ連れて行く。

春日山の岩屋に似たここに謙信公をまつるという。二人の胸に、これまでの日々が去来する。

元和5年(1619年)秋、紅葉の木を見ながら、お船常盤貴子)に「紅葉になれたかの・・・」と、直江兼続妻夫木聡)は問いかけるのだった。

大河ドラマ 天地人

NHK大河ドラマ『天地人』第46回「大坂城炎上」21.7%
NHK大河ドラマ『天地人』第45回「大阪の陣へ」22.2%
NHK大河ドラマ『天地人』第44回「哀しみの花嫁」19.5%
NHK大河ドラマ『天地人』第43回「実頼追放」20.9%
NHK大河ドラマ『天地人』第42回「将軍誕生」18.2%
NHK大河ドラマ『天地人』第41回「上杉の生きる道」17.7%

NHK大河ドラマ『天地人』第40回「上杉転落」18.6%
この人物のオモテとウラ 「男」も「タイミング」もバッチリ
妻夫木兼続から福山龍馬へ大河バトン
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NHK大河ドラマ『天地人』第39回「三成の遺言」19.5%
NHK大河ドラマ『天地人』第38回「ふたつの関ヶ原」20.0%
NHK大河ドラマ『天地人』第22回〜第37回

★★★2010年NHK大河ドラマ「龍馬伝」★★★

2008年NHK大河ドラマ『篤姫』

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2009年11月16日

NHK大河ドラマ『天地人』第46回「大坂城炎上」

NHK大河ドラマ天地人」原作・火坂雅志、脚本・小松江里子第46回「大阪城炎上」11/15

慶長19年(1614)秋

上杉景勝北村一輝)と直江兼続妻夫木聡)のもとへ、政宗(松田龍平)が訪ねてくる。

政宗(松田龍平)直江兼続妻夫木聡)に、大坂城攻め中止を徳川家康(松方弘樹)にかん言してほしいという豊臣秀忠(中川晃教)の命を伝える。

直江兼続妻夫木聡)は駿府城へ赴く。

豊臣を裏切るのか、とただす直江兼続妻夫木聡)に対して、徳川家康(松方弘樹)は開き直る。

「わしは、徳川家のことしか考えておらん」

豊臣秀頼中村倫也)に嫁いだ娘・千姫川島海荷)の身を豊臣秀忠(中川晃教)が案じる中、徳川家康(松方弘樹)は大坂城攻めの陣ぶれを出す。

お船常盤貴子

「また戦いになるのですね、淀さまと・・」

直江兼続妻夫木聡

「我らが徳川に敗れて14年・・世の中は泰平に向かっている。今、我らが正義をふりかざしたとて流血を待つのみ・・恨みが消えぬ世に清き国はつくれん」

お船常盤貴子

「赤子を産むようですな・・今の苦しみは新しき命の産みの苦しみ・・」

直江兼続妻夫木聡

「やがて生まれ来る赤子のために耐えねばなるまい・・」

一方、真田幸村城田優)ら浪人諸将は大坂城に集結。

慶長19年(1614年)11月、「大坂冬の陣」の火ぶたが切られる。

豊臣方に集まったのは浪人ばかり。大阪城にはせ参じる大名は一人もいなかった。

大坂城を攻めあぐねた徳川家康(松方弘樹)は外堀を埋めることを条件に和議を結ぶ。

直江兼続妻夫木聡)は、真田幸村城田優)にひそかに呼び出され酒を酌み交わす。

もはや豊臣に勝ち目はないとする真田幸村城田優)は、直江兼続妻夫木聡)にこれまでの礼を述べる。

真田幸村城田優

「関ヶ原の戦いから15年・・同じ陣で鮭をくみかわすことが夢でしたがかないませんでした・・

直江兼続妻夫木聡

「叶う夢もあれば叶わぬ夢もある・・55にもなればそれが嫌と言うほどわかる・・叶わなかった夢は次の世代にかなえてほしい・・そのためならばどんな辛抱もいとわぬと決めたのじゃ・・」

真田幸村城田優

「徳川は必ずせめてくるでしょう。今生のお別れでございます。幾重にも御礼もうすばかりでござる」

別れ際、直江兼続妻夫木聡)は、真田幸村城田優)に千姫川島海荷)を助けてほしいと頼む。

「秀頼さまとよど様の慈悲の心で千姫さまを助けてやってくださらぬか・・豊臣の義を持って後世に伝えてくださらぬか・・と。天下人の真の愛をお示しくだされと・・」

その後、徳川家康(松方弘樹)は城を明け渡すよう豊臣に要求するが、淀(深田恭子)はこれを拒否、「大坂夏の陣」となる。

徳川の攻撃により、ついに大坂城は落城。

千姫川島海荷)の命も絶たれたと思われたとき、直江兼続妻夫木聡)とともに千姫川島海荷)が現れる。

淀(深田恭子)豊臣秀頼真田幸村城田優)が助けたのだ。

喜ぶ徳川家康(松方弘樹)千姫川島海荷)は、一生許さないと言い放つ。

直江兼続妻夫木聡)は亡くなった人々に対し、命と引き換えに世の安寧(あんねい)を残した、と感謝するのだった。

大河ドラマ 天地人

高台院(富司純子)
勝吉黄川田将也
竹松(加藤清史郎
仙桃院高島礼子
お松(逢沢りな

泉沢(東幹久)

NHK大河ドラマ『天地人』第45回「大阪の陣へ」22.2%
NHK大河ドラマ『天地人』第44回「哀しみの花嫁」19.5%
NHK大河ドラマ『天地人』第43回「実頼追放」20.9%
NHK大河ドラマ『天地人』第42回「将軍誕生」18.2%
NHK大河ドラマ『天地人』第41回「上杉の生きる道」17.7%

NHK大河ドラマ『天地人』第40回「上杉転落」18.6%
この人物のオモテとウラ 「男」も「タイミング」もバッチリ
妻夫木兼続から福山龍馬へ大河バトン
加藤清史郎は黒柳徹子に、大河ドラマ「天地人」でのアノ名ぜりふをリクエストされ、披露する

<常盤貴子>長塚圭史と婚姻届提出「魂をしっかりと結ぶ」 公式サイトで発表
加藤清史郎くんに「まいった」 「天地人」の上手すぎる演技
子役の加藤清史郎が作家デビュー〜加藤清史郎はいくらもらっているのか
噂の深層 NHK大河撮影現場も巻き込む深キョンのマイペースぶり

妻夫木聡 「愛のある現場」に涙、『天地人』スタジオ撮影終了

人気子役・加藤清史郎、兼続の長男・竹松役で『天地人』再出演
上地雄輔、一足先に『天地人』の撮影を終え「本当に寂しい」

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★★★2010年NHK大河ドラマ「龍馬伝」★★★

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天地人★淀殿(深田恭子)

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NHK大河ドラマ天地人」原作・火坂雅志、脚本・小松江里子

天地人

淀殿深田恭子

豊臣秀吉の側室。織田信長の姪にあたる。1589年には捨(鶴松)を生んで、喜んだ秀吉から淀城を賜り、以後「淀殿」と呼ばれるようになる。

1593年には拾(秀頼)を生む。秀吉死後は北政所を差し置き、秀頼の後見人として豊臣家の家政の実権を握った。「関ヶ原の戦い」後、江戸に武家政権を構築し始めた徳川家康と対立したが、「大坂冬の陣・夏の陣」で徳川勢に完敗。大坂城落城に際して秀頼とともに自害した。

大河ドラマ 天地人

深キョンの限界露出 きっかけはライバル・黒木メイサ
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淀殿(よどどの、永禄12年(1569年)?[1] - 慶長20年5月8日(1615年6月4日)[2]?)は、戦国時代(室町時代末期)から江戸時代初頭の女性で、豊臣秀吉(羽柴秀吉)の側室[3]。位階は従五位下とされるが、諸説あり。本名は 浅井 茶々(あざい ちゃちゃ)および 浅井 菊子(あざい きくこ)。

天正16年(1588年)頃、秀吉の側室となる。秀吉は茶々の母市に憧れていたという。しかし市は夫勝家とともに自害。このとき、城から脱出してきていた三姉妹を保護する。三姉妹の中では母の面影を一番よく受け継いでいた長女お茶々を、側室に迎えようとしていたという。

天正17年(1589年)、捨(鶴松)を生む。この懐妊を喜んだ秀吉から山城国淀城を賜り、以後「淀の方」と呼ばれるようになった[14]。鶴松は天正19年(1591年)に死亡するが、文禄2年(1593年)に拾(秀頼)を生み、秀吉の死後は秀頼の後見人として大蔵卿局・饗庭局らを重用して豊臣家の家政の実権を握った[15]。

なお、鶴松を産んだときに高野山・持明院へ父母の肖像画をおさめ、秀頼を産んだときに父母ら血縁の菩提を弔うために、養源院(養源院とは浅井長政の院号であり、開基は一族の成伯)を建立した。秀吉死後、高野山などの修復にも当たっている。


徳川家康との対立、大坂の役 [編集]
慶長5年(1600年)に五奉行の石田三成が五大老となった徳川家康に対して挙兵した関ヶ原の戦いに際しては表だって関与はしていないが、豊臣家の直轄領は大幅に削減される。

関ヶ原の戦いの後に江戸に武家政権を構築しはじめた家康と対立し、臣従を求める秀頼の上洛要求などを拒否する。慶長19年(1614年)と慶長20年(1615年)の大坂の役で徳川勢に完敗し、大坂城落城に際して秀頼や大野治長らと共に自害したとされる。

墓所は京都市東山区の養源院、大阪市北区の太融寺。戒名は大虞院英厳大禅定尼、大虞院花顔妙香、大広院殿英ーと伝わる。

しかし茶々の最期を目撃した者がおらず、また遺体も確認されなかったため、秀頼と同様に彼女にも逃亡・生存説がある。落ち延びた先として薩摩や上野が挙げられているが、真偽については未だにはっきりしていない。

淀殿 - Wikipedia

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NHK大河ドラマ「天地人」◆真田幸村(城田優)

家康と2度戦った男・・真田幸村

関ヶ原の戦い家康率いる東軍に敗れた幸村は九度山に追放された。

しかし大坂の陣を前に豊臣家から呼ばれ、大坂城へ。

幸村は防御の弱い大坂城の南側に「真田丸」と呼ばれる出城を建設。そこに徳川勢をひきつけ撃退。家康を苦しめた。

現在も大阪市天王寺区にある三光神社には陣中指揮姿の幸村像がある。

真田幸村城田優):天才軍師。若い頃人質として上杉家へ。兼続に温かい待遇を受け感激し、兄と慕う。

NHK大河ドラマ『天地人』第22回「真田幸村参上」

真田信繁さなだのぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。永禄10年(1567年)とされる生年は没年の49歳から逆算されたもので、月日は不明。

武田信玄の家臣であった真田幸隆の孫。大坂の役で活躍。特に大坂夏の陣では、寡兵を持って徳川本陣まで攻め込み、徳川家康を後一歩のところまで追いつめたとされる。江戸期以降、講談や小説などで真田十勇士を従えて大敵徳川に挑む天才軍師真田幸村さなだゆきむら)として取り上げられ、広く一般に知られることになった

講談などの影響で「真田幸村(さなだゆきむら)」の名で広く知られているが、信繁直筆の書状を始め、信繁が生きていた同時代の史料で「幸村」の名が使われているものは存在しない。従って歴史上の人物の名としては「信繁」が正しい。講談などで語られる「幸村」の活躍に関しては後述する真田幸村の節を参照のこと。

「幸村」の初出は江戸時代の寛文12年(1672年)成立の軍記物語『難波戦記』にあり、その本が爆発的に売れたため、「幸村」とすることのほうが一般的となり、後には兄・信之の子孫である松代藩の史書にまで「幸村」が採用された。

新井白石著の藩翰譜に、幸村と記載されている。

「幸」は真田家(厳密には真田家の主家にあたる海野家)の通字であり、「村」については信繁の姉の村松や、信繁の子孫が仕えた伊達家当主の伊達綱村、徳川家を呪ったとされる妖刀村正に由来しているとする説などがある。

「幸村」という名は信繁の死後100年以内で広まっているため、真田昌幸の死後に昌幸の片諱を継承して実際に「幸村」と名乗ったのではないかとの推測もある。ただし、可能性としてありうるものの「幸村」という名が記された史料が見つかっておらず、現状では立証が不可能である。

夏の陣での死の二ヶ月前に「幸村」と改名したため、という説もあるが史料に残っていない。大阪冬の陣と大阪夏の陣の半ばの慶長20年2月に叔父にあてた手紙や、兄・姉にあてた手紙にも信繁の名がある。

真田信繁 - Wikipedia

. 家康が最も恐れた男 真田幸村 - Wikipedia
. 真田幸村の生涯
. 日本一の兵 真田幸村 / 真田氏の館 三代録
. 真田幸村(城田優) - @niftyテレビ番組表「天地人」特集

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NHK大河ドラマ天地人」原作・火坂雅志、脚本・小松江里子

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千姫(川島海荷)

NHK大河ドラマ天地人」原作・火坂雅志、脚本・小松江里子

千姫川島海荷

千姫(せんひめ、慶長2年4月11日(1597年5月26日) - 寛文6年2月6日(1666年3月11日))は、安土桃山時代から江戸時代の女性で、豊臣秀頼・本多忠刻の正室である。父は徳川秀忠、母は正室の江。号は天樹院。

慶長2年(1597年)5月26日、秀忠と江の長女として、山城国伏見城内の徳川屋敷で産まれる。 慶長8年(1603年)に7歳で秀頼と結婚し、乳母の刑部卿局とともに大坂城に入る。秀頼とは従兄妹にあたるが、たいへん夫婦仲睦まじかったという。慶長20年(1615年)19歳の時、大坂夏の陣では、祖父である徳川家康の命により落城する大坂城から救出される。その後、秀頼と側室の間の娘奈阿姫が処刑されそうになった時に千姫は彼女を自らの養女にして命を助ける。

元和2年(1616年)、桑名藩主本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚。この時、津和野藩主坂崎直盛が輿入れの行列を襲って千姫を強奪する計画を立てていることが発覚し、直盛は自害(もしくは家臣により殺害)、坂崎氏は改易処分となった(千姫事件)。一説には大坂城落城の際、千姫を救出した者と千姫を結婚させるとの家康の言葉を受けた直盛が、顔に火傷を負いながらも千姫を救出したが、直盛の器量が悪いことから千姫が結婚を嫌がり、結局美男の本多忠刻と結婚することになったという。直盛の襲撃計画はこのことを恨んでのものとされ、長く信じられていたが、現在ではそもそも大坂城で直盛が千姫を救出した話自体が疑わしいとされている(実際には堀内氏久という豊臣方の武将に護衛されて直盛の陣まで届けられた後、直盛が秀忠の元へ送り届けた、というのが真相らしい。それに、千姫を与えるではなく、嫁ぎ先を探すのを頼まれたのが真実らしい)。

同年9月26日に桑名城に着いた。この時に10万石の化粧料を与えられたといわれる。翌年の元和3年(1617年)、本多家が播磨姫路に移封になった時には8月28日に桑名を発って姫路城に移って播磨姫君と呼ばれるようになる。夫・忠刻とも夫婦仲睦まじく、翌元和4年(1618年)には長女・勝姫、元和5年(1619年)には長男・幸千代が生まれるが、元和7年(1621年)に幸千代が3歳で没したのを始め、その後は流産を繰り返すなど子宝に恵まれず(これは秀頼の祟りだと言われた)、寛永3年(1626年)には夫・忠刻、姑・熊姫、実母・江が次々と没するなど不幸が続き、本多家を娘・勝姫と共に出て江戸城に入り、出家して天樹院と号す。出家後は娘と二人で竹橋の邸で暮らす。寛永5年(1628年)に勝姫は池田光政の元へ嫁ぎ、一人暮らしとなる。池田家に嫁いだ一人娘のことを心配し、「天樹院書状」を送っている。

寛永20年(1643年)、鎌倉の東慶寺の伽藍を再建する。正保元年(1644年)には迷信を避ける為に江戸城から移った3代将軍家光の側室・夏(後の順性院)とその後生まれた家光の次男・綱重と暮らすようになる。このことで大奥で大きな権力を持つようになったとされる。明暦3年(1657年)の明暦の大火で竹橋の邸が焼失した時には、紀州徳川家の屋敷に一時寄留する。寛文6年(1666年)、江戸で死去。享年70。


知恩院千姫の宝塔亡くなった夜祖父家康の母於大の方(おだい)の菩提寺である小石川伝通院(傳通院、でんづういん)に納められ導師知鑑(知恩院37世)により葬儀が行なわれた。墓所は傳通院と茨城県常総市の天樹院弘経寺にあり、また徳川家(松平家)が三河時代から帰依していた浄土宗の総本山である京都の知恩院(華頂山知恩教院大谷寺)に定例により分骨され宝塔に納められた。知鑑は後に位牌や遺物を祭るため伊勢に「寂照寺」を開いた。戒名天樹院殿栄譽源法松山禅定尼。

錦絵や浪曲でよく語られる、御殿から男を誘い込んで弄び、それらの男を全員殺したという「吉田御殿の話」が伝説として生まれている。

人物 [編集]
穏和な性格の持ち主と伝えられるが、実際には豊臣秀頼と側室の間に生まれた娘・奈阿姫が処刑される所を体を張った必死の助命嘆願を行い、その結果、奈阿姫は助けられたとされる。奈阿姫は後に「縁切り寺」として有名な東慶寺の住職となる。

千姫は祖母・市の聡明さと美貌を受け継いだ、たいへん美しい姫君であったという。また、初めの夫・秀頼とも夫婦仲睦まじかった。千姫が16歳のとき、秀頼が女性の黒髪を揃える儀式「鬢削」を千姫にしていたのを侍女が目撃している。

千姫が亡くなった際、娘・勝姫の子である奈阿姫(上記の秀頼の娘とは別人)は祖母の菩提を弔うために「浄土三部経(全4巻)」を書き写した。奈阿姫の書いた「浄土三部経(紺紙金泥阿弥陀経)」は現在、茨城県常総市指定文化財となっている。

千姫は祖父・家康や父・秀忠からたいへん可愛がられたという。また、弟家光とも姉弟仲は良好だったらしい

千姫 - Wikipedia

川島海荷
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大坂の陣

NHK大河ドラマ天地人」原作・火坂雅志、脚本・小松江里子

大坂の役
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(大坂の陣 から転送)

大坂の役(おおざかのえき、慶長19年(1614年) - 慶長20年(1615年))は、江戸幕府が豊臣宗家(羽柴家)を滅ぼした戦いである大坂冬の陣(おおざかふゆのじん)と大坂夏の陣(おおざかなつのじん)をまとめた呼称。一般には「大坂の陣おおざかのじん)」とも呼ばれる。

豊臣秀吉死後の豊臣政権においては五大老の徳川家康が影響力を強め、慶長5年(1600年)に元五奉行の石田三成らが蜂起した関ヶ原の戦いで家康は東軍を指揮して三成ら西軍を撃破する。徳川家康は戦後処理や論功行賞を主導するなど実権を握った。この際、豊臣家の蔵入地(直轄地)を処分、豊臣家の所領は摂津・河内・和泉の約65万石程度まで削がれた

慶長8年2月12日(1603年3月24日)、家康は伏見城で征夷大将軍に就任、江戸幕府を開き、江戸城を始め普請事業を行うなど政権作りを始める。家康の政治目標は徳川家を頂点とした長期的かつ安定した政権をつくることであったとされ、徳川家の主君筋に当たり幕府のヒエラルキー社会では別格的存在となる豊臣家に対し、服属させるか、それが拒絶された場合には処分する事を考え始めたという。

同年7月、徳川秀忠の娘である千姫が秀吉の遺言に基づき子の豊臣秀頼に輿入した。

慶長10年(1605年)正月に家康が、つづいて2月に秀忠が伊達政宗ら奥羽の大名を加え10万とも16万ともいわれる大軍を率いて上洛した。同年4月16日、家康は将軍職を辞して将軍職を秀忠に譲る。これは天下にはもはや豊臣家ではなく徳川家が君臨することを示すものであるが、秀頼も順調に昇任を重ね、将軍就任時の秀忠の官位が内大臣であったのに対し、秀頼は右大臣になっていた。家康の将軍任官時には、同時に秀頼が関白に任官されるとする風聞が違和感なく受け止められており[2]、元服を前に秀吉の子として関白就任への可能性を残していた[3]秀頼の存在は無視できないものになっていた。

5月8日、秀頼に対して臣下の礼を取るように高台院を通じて秀頼生母の淀殿に要求するなど友好的対話を求めた。この時、淀殿は会見を拒否し両者の関係は悪化するが家康は松平忠輝を大坂に遣わし融和に努めている。

慶長16年(1611年)3月、後陽成天皇の譲位を受けての後水尾天皇即位に際して上洛した家康は二条城での秀頼との会見を要請する。秀頼の上洛を求める家康に対し反対もあったが、加藤清正や浅野幸長ら豊臣家恩顧の大名らの取り成しもあり会見は実現する[4]。翌4月、家康は在京の大名22名を二条城に招集させて幕府の命令に背かないという誓詞を提出させた。翌慶長17年(1612年)にも東北・関東などの大名65名から同様の誓詞をとっている。ただ、秀頼からは誓詞を提出させていない。

二条城の会談により両者の緊張は緩和したものと思われた。しかし、慶長16年(1611年)に浅野長政・堀尾吉晴・加藤清正が、18年に池田輝政・浅野幸長、19年に前田利長が亡くなると、豊臣家の孤立はいっそう強まり、その焦りからか幕府に無断で朝廷から官位を賜ったり[5]、兵糧や浪人を集めだし、更には前田家と誼を通じようとするなど、幕府との対決姿勢を前面に押し出し始めた。

豊臣家に対し融和策をとる徳川家も戦の準備は怠らず、攻城兵器として国友鍛冶に大鉄砲・大筒の製作を命じ、他にも石火矢の鋳造、イギリスやオランダに対し大砲・焔硝・鉛(砲弾の材料)の注文を行っている。また、家康は林羅山に湯武放伐論の是非を問うなど、主家である豊臣家を討つことの倫理的な問題をどう解決すべきか苦悩している。

こうしたなかで発生した方広寺鐘銘事件により、両家の対立は決定的となる(方広寺鐘銘事件の詳細は後述)。慶長19年(1614年)8月、豊臣家は鐘銘問題の弁明のために片桐且元を駿府へ派遣するが、家康は且元と面会していない。しばらくして大野治長の母の大蔵卿局が駿府へ派遣されたが、家康は大蔵卿局とは面会して丁重に迎えている。9月6日、家康は豊臣方の徳川家に対しての不信が問題の要因であるとし、崇伝と本多正純を使者として、大蔵卿局と且元とを同席させた上で、双方の親和を示す方策を講じ江戸に赴いて申し開きするよう要求したという。同日、家康は今度は西国の大名50名から誓詞をとっている。

且元は大坂へ戻り、9月20日、私案として以下の3つの妥協案を進言した。

秀頼を江戸に参勤させる
淀殿を人質として江戸に置く
秀頼が国替えに応じ大坂城を退去する
これを聞いた豊臣家では大坂城は秀吉公以来の居城であり、この要求を徳川家康の実質的の宣戦布告と受け取る。且元や弟の片桐貞隆など和平派の追放を決定し、決戦の準備に着手した。

10月1日片桐且元・貞隆は大坂城を退去した。相前後して、秀頼に近侍していた織田信雄、石川貞政なども退去。同日、家康は諸大名に大坂城攻撃を宣言した。

家康の天下普請
徳川家康は関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601年)に築城を始めた膳所城を皮切りに伏見城・二条城・彦根城・篠山城・亀山城・名古屋城の再建・造営や江戸城・駿府城・姫路城・上野城などの大改修など、諸大名を動員した建築事業、いわゆる天下普請を行った。これにより諸大名の財政を圧迫させて幕府への抵抗力を削減すると共に、豊臣氏への包囲網と西国大名の押さえとした。この普請には幕府からある程度の費用が与えられてはいたが、動員された大名は経済的に疲弊し、例えば佐賀藩では藩士の俸禄を一律三割減らすといった状態に陥っていた。名古屋城普請の際には豊臣家へも動員が命じられたが、淀殿がこれに拒否反応を示し、沙汰止みになっている。

秀頼の寺社造営
豊臣秀頼・淀殿は、豊臣秀吉没後から秀吉の追善供養として畿内を中心に寺社の修復・造営を行っている。主なもので東寺金堂・延暦寺横川中堂・熱田神宮・石清水八幡宮・北野天満宮・鞍馬寺毘沙門堂など、85件にものぼった。慶長13年(1608年)には、家康が方広寺大仏殿(秀吉が建立し慶長元年(1596年)に倒壊)の再建を勧めている。

これら多くの造営で秀吉が大坂城に遺した金銀は底をつくのではないかという憶測も流れたが、実際には全く困窮していなかった。大坂の役で多くの戦費を消費したにもかかわらず、大坂城落城後、約2万8千枚の金(約28万両)と約2万4千枚の銀(約24万両)が幕府に没収されている。

方広寺鐘銘事件

方広寺の鐘銘慶長19年(1614年)、慶長14年から豊臣家が再建していた京都の方広寺大仏殿はほぼ完成し、4月には梵鐘が完成した。総奉行の片桐且元は、梵鐘の銘文を南禅寺の文英清韓に選定させた。

且元は駿府の家康への銘文の選定や大仏開眼供養の導師や日時の報告などを逐次行い上棟は間近であったが、7月29日、家康は家臣の本多正純を通じて、梵鐘銘文の文中に不吉な語句があるとして、大仏供養を延期させた。家康は五山の僧(金地院崇伝ら)や林羅山に鐘銘文を解読させた。崇伝らは、文中に「国家安康」「君臣豊楽」とあったものを、「国家安康」は家康の諱を分断し、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願い徳川家に対する呪詛が込められていると断定した。また、林羅山は「右僕射源朝臣家康」(右僕射は右大臣の唐名)を「家康を射る」ものであると解釈している。

この事件は、豊臣家攻撃の口実とするため、家康が崇伝らと画策して問題化させたものであるとの考え方が一般的である。しかし、清韓自身は家康の諱を「かくし題」とした意識的な撰文である(「国家安康と申し候は、御名乗りの字をかくし題にいれ、縁語をとりて申す也」)と弁明しており、五山の僧の答申はいずれも諱を避けなかったことについて問題視している[6]。当時、基本的に諱で呼ぶ事が出来るのは両親、主君そして敵であり、通常は名字+官職名もしくは通名等で呼び諱で呼ぶことは非常に無礼なことであった事を考えると、家康側が全面的にこじつけたものではなく、豊臣側の軽率な行為が付け入る隙を与えたという性格の方が強い。

大坂冬の陣

冬の陣布陣図(慶長19年12月)拡大 豊臣方の準備 [編集]
慶長19年(1614年)10月2日、豊臣家では旧恩ある大名や浪人に檄を飛ばし戦争準備に着手した。同日に兵糧の買い入れを行うとともに、大坂にあった徳川家をはじめ諸大名の蔵屋敷から蔵米を接収した。秀吉の遺した莫大な金銀を用いて浪人衆を全国から集めて召抱えたが、諸大名には大坂城に馳せ参じる者はなく、ただ福島正則が蔵屋敷の兵糧を接収するのを黙認するにとどまった[7]。また籠城のための武器の買い入れ、総構の修理・櫓の建築なども行った。

集まった浪人を併せた豊臣方の総兵力は約10万人で、著名な浪人として真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、後藤基次(又兵衛)、毛利勝永、明石全登(彼らは五人衆と呼ばれた)、塙直之、大谷吉治などがいた。彼らは徳川家への復讐に燃える者、戦乱に乗じて一旗上げようとする者などで、歴戦の勇士が多く士気も旺盛だったが、いかんせん寄せ集めに過ぎないため統制がなかなかとれず、実際の戦闘では作戦に乱れが生じる元ともなった。

豊臣軍内部は二つに割れていた。まず、豊臣家宿老の大野治長を中心とする籠城派。二重の堀で囲われさらに巨大な惣堀、防御設備で固められた大坂城に立て籠もり、徳川軍を疲弊させて有利な講和を引き出そうという方針である。これに対し浪人衆の真田信繁は、まず畿内を制圧し、近江国の瀬田川まで軍を進め、ここで関東から進軍してくる徳川軍を迎え撃ち、足止めしている間に諸大名を味方につけ、その見込みが無いときに初めて城に立て籠もって戦う、二段構えの作戦を主張した。後藤基次・毛利勝永も真田案を元に伊賀国と大津北西にも兵を送り、敵を足止めすべしと主張して対立したが、結局、大野治長ら豊臣家臣の案である、周辺に砦を築きつつ(警戒・連絡線を確保する為)、堅固な大坂城に籠城する作戦が採用された。[8]

同月、豊臣方は淀川の堤を切って大坂一帯を水没させ、大坂城を浮城にしようとしたという。しかし幕府方の本多忠政・稲葉正成などにより阻止され、被害は行軍に支障をきたす程度にとどまった。

幕府軍の出陣
10月11日、家康は軍勢を率いて駿府を出発した。この開戦が決まると、家康はいつになく若やいだと本多正純は記している。23日に二条城に入り、同日秀忠が6万の軍勢を率い江戸を出発した。家康は25日に藤堂高虎・片桐且元を呼び、先鋒を命じている。 幕府方の動員した兵力は約20万に上り、この大軍が大坂に集結したため少なからず混乱が起こった。ただし福島正則や黒田長政らは江戸城に留め置きとされた。豊臣家恩顧の者たちが豊臣方に寝返るのを恐れたといわれるが、関ヶ原の戦いで東軍勝利のために尽力した黒田長政に関してこれは当てはまらない。なお、江戸城留め置きとされた大名も、その子が大坂に参陣している。

11月15日、家康は二条城を出発し、奈良経由で大坂に向かった。18日、家康は先着していた秀忠と茶臼山陣城にて軍議を行っている。

緒戦
慶長19年(1614年)11月19日、戦闘は木津川口の砦においてはじまる(木津川口の戦い)。この後11月26日には鴫野・今福で(鴫野・今福の戦い)、11月29日には博労淵、野田・福島において激しい戦闘が行われた(博労淵の戦い、野田・福島の戦い)。数ヶ所の砦が陥落した後、11月30日に豊臣軍は残りの砦を破棄、大坂城に撤収する。

攻囲戦
豊臣方が籠城した大坂城を徳川方は約20万の軍で完全に包囲した。家康は12月2日、茶臼山を[9]、以降は各将の陣を視察し、仕寄(攻城設備)の構築を命じている。4日より各隊は竹束・塹壕・築山などの仕寄の構築を行いつつ大坂城に10町から5・6町まで接近していった[10]。これ以前、家康は10月22日に命じた方広寺の炉で作成させた鉄盾を各将に配布している[11]。

この接近時に豊臣方の挑発に乗って始められた、包囲戦における最大の戦いである真田丸・城南の攻防戦(12月3日、4日)では、豊臣方が徳川軍を撃退、諸隊に大きな損害を与えた。秀忠は同日4日に岡山に着陣し、家康が講和を策している事を知り家康に総攻撃を具申するが、家康は敵を侮る事を戒め戦わずに勝つ事を考えよとこれを退けている[12]。5日、家康は住吉から茶臼山に本陣を移し[13]、8日までに到着した部隊にも仕寄の構築を命じている。

9日より家康は大坂城に対する攻城を本格化させる。先月23日[14]より伊奈忠政・福島忠勝・毛利秀就・角倉素庵に命じて建設していた淀川の流れを尼崎に流す長柄堤がこの日竣工し、大和川がある為干上がる事はなかったが川の深さは膝下まで下がる[15]。本工事終了後、続いて大和川の塞き止めも行っている。また、諸隊に命じて毎夜三度(酉・戌・寅の刻)、鬨の声を挙げて鉄砲を放たせ、敵の不眠を誘っている(この鬨の声は京まで届いた)[16]。この頃より大坂城総構への南方からの大砲射撃も本格化し、幕府方の仕寄は堀際まで松平忠明隊は20から30間、藤堂隊は7間に近接している[17]。

10日には投降を促す矢文を送り[18]、11日には甲斐や佐渡の鉱夫を動員して南方より土塁・石垣を破壊する為の坑道掘削を始めた[19]。13日、家康は大名一人につき50本の熊手付き梯子を配っている[20]。更に、船場の堀の埋め立ても命じた[21]。

そして16日から全軍より一斉砲撃が始められる[22]。北方の備前島だけで大筒100門と石火矢が本丸北側の奥御殿に、南方の天王寺口からはこれまでの総構から本丸南方の表御殿千畳敷に目標を変更した砲撃が和議締結まで打ち込まれ続けた。この砲撃では国友製3貫目の大砲が用いられており、また6月頃にイギリスより購入したカルバリン砲4門、セーカー砲1門や7日前に兵庫に到着したオランダ製4・5貫目の大砲12門[23]も含まれていると思われる。この砲声は京にも届き、その音が途切れることはなかった。

これに対し豊臣方は近接する徳川方に激しく銃撃し、竹束のみの時は一手に付き300から500人の死傷者が出たが、相手が築山・土塁を築くと鉄砲の効果は激減する[24]。また砲撃に対抗してこちらも砲撃したり、塙直之が蜂須賀至鎮に夜襲をしかけ戦果をあげたが(17日)、劣勢であることは否めず、和議に応ずることになる。

和議
徳川方は豊臣方の買占めによる兵糧不足があり[25]、また真冬の陣でもあったため、12月3日より織田有楽斎を通じて豊臣方との和平交渉を行っている。8・12日にも有楽斎と治長が本多正純、後藤光次と講和について書を交わしている。15日には淀殿が人質として江戸に行く替わりに、篭城浪人の為の加増を条件とした和議案が豊臣方より出されるが、家康はこれを拒否する。

豊臣方も同じく兵糧に加え弾薬の欠乏や徳川方が仕掛けた心理戦、大砲で櫓・陣屋などに被害を受けて将兵は疲労し、また豊臣家で主導的立場にあった淀殿も本丸への砲撃で身近に被害が及び、態度を軟化させて和議に応じたという(16日)。

また、朝廷から後陽成上皇の命により、17日に広橋兼勝と三条西実条を使者として家康に和議を勧告した。家康はこれも拒否し、あくまで徳川主導で交渉を進めた。

交渉は18日より徳川方の京極忠高の陣において、家康側近の本多正純、阿茶局と、豊臣方の使者として派遣された淀殿の妹である常高院との間で行われ、19日には講和条件が合意、20日に誓書が交換され和平が成立した。同日、家康・秀忠は諸将の砲撃を停止させている。

講和内容は豊臣家側の条件として

本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋める事。
淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出す事。
が提出され、これに対し徳川家が

秀頼の身の安全と本領の安堵。
城中諸士についての不問。
を約すことで、和議は成立している。この他、秀頼・淀殿の関東下向を行わなくて良い事も決められた(但し、二の丸の破壊をしなくても良いという史料もある[26])。

堀の埋立
和議条件の内、城の破却と堀の埋め立ては二の丸が豊臣家、三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決められていた。この城割(城の破却)に関しては古来より行われているが、大抵は堀の一部を埋めたり、土塁の角を崩すといった儀礼的なものであった。

しかし、徳川側は徹底的な破壊を実行する。松平忠明、本多忠政、本多康紀を普請奉行とし、家康の名代である本多正純、成瀬正成、安藤直次の下、攻囲軍や地元の住民を動員して突貫工事で外堀を埋めた後に、一月より二の丸も埋め立て始めた。二の丸の埋め立てについては相当手間取ったらしく周辺の家・屋敷を破壊してまで埋め立てを強行した。講和後、駿府に帰る道中に家康は埋め立ての進展について何度も尋ねている。工事は23日には完了し、諸大名は帰国の途に就いた。

この間、豊臣方は二の丸の埋め立ては当方の受け持ちであると抗議したが、徳川方は「工事が進んでいないので、手伝う」といいそのまま、埋め立てを行った。この際、門や櫓も徹底的に破壊されている。

内堀まで埋め立てることは当初からの和議の条件であった。そのため、豊臣方の制止を無視して「だまし討ち的に」内堀まで埋め立てたとする通説は俗説であるが、以上のような経緯が誇大に伝えられた結果と考えることができる。

またこの間、徳川方は豊臣方が浪人が退城しない事について不審感を抱いている。これは徳川方が浪人については助命という意味で不問にしたのに対し、豊臣方についてはこのまま召抱えても良いという解釈の差があったと思われる。

大坂夏の陣
和平成立後、家康は京都から駿府へ戻り、秀忠も伏見に戻ったが、一方で国友鍛冶に大砲の製造を命じるなど、戦争準備を行っている。慶長20年(1615年)3月15日、大坂に浪人の乱暴・狼藉、堀や塀の復旧、京や伏見への放火の風聞といった不穏な動きがあるとする報が京都所司代板倉勝重より駿府へ届くと、徳川方は浪人の解雇、豊臣家の移封を要求する。

4月1日、家康は畿内の諸大名に大坂から脱出しようとする浪人を捕縛すること、小笠原秀政に伏見城の守備に向かうことを命じた。 4月4日、家康は徳川義直の婚儀のためとして駿府を出発、名古屋に向かった。翌5日に大野治長の使者が来て豊臣家の移封は辞したいと申し出ると、常高院を通じて「其の儀に於いては是非なき仕合せ」(そういうことならどうしようもない)と答え、4月6日および7日に諸大名に鳥羽・伏見に集結するよう命じた。

家康が名古屋城に入った4月10日、秀忠は江戸を出発している。4月12日、名古屋城にて徳川義直の婚儀が行われ、家康は18日に二条城に入った。このころ秀忠は藤堂高虎に対し、自分が大坂に到着するまで開戦を待つよう藤堂からも家康に伝えてくれと依頼している。

4月21日、秀忠は無事二条城に到着し、翌22日、家康と秀忠は本多正信・正純父子、土井利勝、藤堂高虎らと軍議を行った。この時の徳川方の戦力は約15万5千。家康はこの軍勢を二手にわけ、河内路及び大和路から大坂に向かうこと、同時に道路の整備、山崎などの要所の警備を行うことを命じた。この二手の他、紀伊の浅野長晟に南から大坂に向かうよう命じている。

5月5日、家康は京を発した。その際、自軍に対し「三日分の腰兵糧でよい」と命じたという。

豊臣方では、4月9日に交渉にあたっていた大野治長が城内で襲撃される事件が起こる。交渉が決裂し、再びの開戦は避けられないと悟った豊臣方は、4月12日に金銀を浪人衆に配り、武具の用意に着手した。また主戦派の浪人たちが埋められた堀を掘り返したりしている。 和議による一部浪人の解雇によりこの時の豊臣家の戦力は7万8千に減少し、さらに丸裸にされた大坂城では籠城戦は不利と判断したとされ、積極的に討って出る作戦を採用している。 なおこの頃、織田有楽斎は豊臣家に見切りを付けて、大坂城を退去している。

樫井の戦い
豊臣方は大野治房の一隊に暗峠を越えさせて、4月26日に筒井定慶の守る大和郡山城を落とし、付近の村々に放火。28日には徳川方の兵站基地であった堺を焼き打ちする。治房勢は、4月29日には一揆勢と協力しての紀州攻めを試みるが、先鋒の塙直之、淡輪重政らが単独で浅野長晟勢と戦い(樫井の戦い)討死してしまう。その後、大野治長らは浅野勢と対峙しつつ、5月6日まで堺攻防戦を行う。

道明寺・誉田合戦
5月6日、大和路から大坂城に向かう幕府軍35,000を豊臣勢が迎撃した道明寺・誉田合戦が起こる。寄せ集めの軍勢である豊臣方は緊密な連絡を取ることができず、後藤基次隊2,800は単独で小松山に進出してしまい、伊達政宗、水野勝成ら2万以上の敵勢に集中攻撃を受け、奮戦するも壊滅、基次は討死した。次いで到着した明石全登、薄田兼相ら3,600の兵も小松山を越えた徳川軍と交戦し、薄田兼相らが討死した。

さらに遅れて真田信繁、毛利勝永ら12,000の兵が到着し、真田隊が伊達政宗隊の先鋒片倉重長隊の進軍を押し止めた。しかし豊臣方は八尾・若江での敗戦の報を受け、残兵を回収して後退。幕府方も連続した戦闘に疲弊したため、追撃を行わなかった。

八尾・若江合戦
同日、木村重成の6,000の兵と長宗我部盛親、増田盛次ら5,300の兵が、河内路から大坂城に向かう徳川本軍12万を迎撃した八尾・若江合戦が起こっている。まず長宗我部隊が霧を隠れ蓑に藤堂高虎隊5,000を奇襲し、藤堂一族その他多数の首を獲ったが、幕府方の援軍に阻まれ、後退中に追撃を受け壊滅。木村重成も藤堂隊の一部を破った後、井伊直孝隊3,200らと交戦、激戦の末に討死した。

豊臣方は意地を見せたが、大勢は幕府方優勢で、いよいよ大坂城近郊に追い詰められる。

天王寺・岡山合戦
夏の陣(天王寺・岡山合戦)布陣図(慶長20年5月7日)拡大5月7日、最後の決戦のため豊臣軍は現在の大阪市阿倍野区から平野区にかけて迎撃態勢を構築した。

天王寺口は真田信繁、毛利勝永など14,500。 岡山口は大野治房ら4,600。 別働隊として明石全登300、全軍の後詰として大野治長・七手組の部隊計15,000?が布陣。

これに対する幕府方の配置は、大和路勢および浅野長晟40,000を茶臼山方面に、その前方に松平忠直15,000が展開した。 天王寺口は本多忠朝ら16,200が展開し、その後方に徳川家康15,000が本陣を置く。 岡山口は前田利常ら計27,500。その後方に近臣を従えた徳川秀忠23,000が本陣を置いた。

正午頃に開始された天王寺・岡山合戦は戦国の世最大にして最後の戦いであり、これまでに例を見ない兵力と火力が集中し、大激戦となった。豊臣方の真田信繁・毛利勝永・大野治房などの突撃により幕府方の大名・侍大将に死傷者が出たり、家康・秀忠本陣は大混乱に陥るなどしたが、兵力に勝る幕府軍は次第に混乱状態から回復し態勢を立て直し、豊臣軍は多くの将兵を失って午後三時頃には壊滅。絶望的な状況の中、唯一戦線を維持し続けた毛利勝永の指揮により、豊臣軍は城内に総退却した。

終局
本丸以外の堀を埋められ、裸同然となっていた大坂城は、もはや殺到する徳川方を防ぐ術がなかった。真田隊を壊滅させた松平忠直の越前勢が一番乗りを果たしたのを始めとして徳川方が城内に続々と乱入し、遂には大坂城本丸内部で内通者によって放たれた火の手が天守にも上がり、5月7日深夜に大坂城は陥落した。その燃え上がる炎は夜空を照らし、京からも真っ赤にそまる大坂の空の様が見えたという。

翌日、脱出した千姫による助命嘆願も無視され、秀頼は淀殿らとともに籾蔵の中で勝永に介錯され自害した[27]。

冬の陣では出陣させるのは譜代のみに限ろうと考えていた徳川家康は、この夏の陣においては豊臣恩顧の大名に敢えて大坂を攻めさせることにより、将来的に徳川家に掛かってくる倫理的な非難を回避しようとしたとされている(江戸時代に徳川家が豊臣家を滅ぼしたことに対する道徳的議論が起こることはなかった。むしろ徳川家の家臣において、敵将に対する武士道的賞賛が盛んに行われた)。

現在、大阪城天守閣で所蔵されている、自らも大坂の役に参戦した黒田長政が絵師を集めて描かせたとされる屏風絵「大坂夏の陣図屏風」の左半分には、徳川方の雑兵達が大坂城下の民衆に襲い掛かり、偽首を取る様子や略奪を働き身包みを剥がすところ、さらには川を渡って逃げる民衆に銃口を向ける光景、そして女性を手篭めにする様子などが詳細に描かれている。また、記録によれば、一万数千の首の内、偽首を取られるなど殺害された民衆が数多くおり、生き残ったものの奴隷狩りに遭った者の数は大人から年端の行かぬ子供まで数千人に達したとされる。

ある町人が残した記録「見しかよの物かたり」には

男、女のへだてなく
老ひたるも、みどりごも
目の当たりにて刺し殺し
あるいは親を失ひ子を捕られ
夫婦の中も離ればなれに
なりゆくことの哀れさ
その数を知らず
と、その悲惨さが語られている。[28]

諸大名の対応
島津氏は秀頼からの書状に対し「豊臣家への奉公は一度済んだ」と返事したが、徳川方としての出陣は冬の陣・夏の陣とも結果的にかなわなかった(夏の陣では、鹿児島を発ち平戸に到着した時に大坂の役の情報を聞いて引き返している)。これは当時、藩主島津忠恒が進めていた藩政改革がうまく行かず、家臣団の統制すらままならなかったからであるが、島津の不参加は一時「島津謀反」の噂を引き起こし、小倉藩の監視を受ける羽目となった。この一件以後、島津氏は藩政改革を一気に推し進め、また幕府の行う事業や島原の乱への出兵など積極的にこなしていった。

戦後処理
秀頼の子の国松は潜伏している所を捕らえられて処刑、また娘の奈阿姫は僧籍に入ることで助命された。徳川家光の代には秀吉の墓まで幕府によって暴かれ、長宗我部盛親はじめ残党の追尾は10年以上に亘って行われた(徳川幕府転覆を企てた由井正雪の片腕とされた丸橋忠弥は長宗我部盛澄といい長宗我部盛親の側室の次男という)。盛親以外には、細川興秋は父・細川忠興から自刃を命じられ、増田長盛は盛次の罪を背負う形で配流先の岩槻で、また古田織部は国松を匿った疑いでそれぞれ自刃した。明石全登の行方は定かではないが、その息子・明石小三郎は寛永10年(1633年)に薩摩で捕まっている。

戦後、大坂城には松平忠明が移り、街の復興にあたった。復興が一段落すると忠明は大和郡山に移封され、以降大坂は将軍家直轄となり、『天下の台所』と呼ばれる商業の街になる。幕府は大坂城の跡地に新たな大坂城を築き、西国支配の拠点の一つとした。

一方、松平忠輝は総大将を務める天王寺合戦で遅参したことが理由の一つとなり、翌年に改易となった。松平忠直は、大坂城一番乗りの褒賞が大坂城や新しい領地でもなく「初花肩衝」と従三位参議左近衛権中将への昇進のみであったことを不満としており、後に乱行の末改易となった。

この戦いを境に戦国時代より続いた大規模な戦闘が終焉した。これを元和偃武と言う。

伝承
真田信繁(幸村)
大坂夏の陣での真田信繁(幸村)の活躍は江戸時代でも歌舞伎などで演じられ、錦絵に描かれるなど、徳川政権下でも後世へ語り継がれた。特に、江戸中期頃に書かれた「真田三代記」は信繁のみならず真田一族の名を高めるのに貢献した。

天王寺合戦は島津家の「薩藩旧記」で「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由、徳川方、半分敗北」、「家康が切腹も考えるほどだった」などと記された。 また家康本陣を守備していた藤堂高虎の一代記である高山公実録にも「御旗本大崩れ」と記され、藤堂勢は一応の応戦はしたものの、真田隊の勢いの前では効果無く、ほどなく家康は本陣を捨ててしまい、高虎自身も、家康の安危を確認できなかったと振り返っている。後に真田隊の猛攻を恐れ、家康を残して逃走した旗本衆の行動を詮議したという「大久保彦左衛門覚書」(三河物語)も残っている。

しかし、天王寺・岡山の戦いで活躍したのは、真田信繁だけではなく毛利勝永、大野治房らも活躍している。真田信繁は徳川軍の中を敵中突破しただけであり、毛利勝永と大野治房は、自軍の数倍もの徳川軍に正面から当たり、壊滅させている。 また、真田信繁が強行突破できたのは、快進撃を続けていた毛利勝永隊に徳川軍が集中していたのも一因である。さらに、真田隊が強行突破できたキッカケとなったのは、毛利隊の快進撃を何とか防ごうと、松平隊の背後にいた浅野隊が毛利隊に当たろうとし、その動きを松平隊が「浅野隊が寝返った」と思い、大混乱したことでもある。

真田隊や毛利隊がどれだけ家康自身に迫ったのかは諸説あり、そのため後世の錦絵や再現イラスト、歴史漫画では様々な想像図が描かれている。また、家康の周囲にいた人間も小栗又一、大久保彦左衛門など本によって様々である。

信繁自刃についても諸説があるが、一般的には「安居神社で石畳に腰をかけているところを討たれた」と言われている。安居神社は天王寺公園・茶臼山の北にある一心寺の北にある。これは明治時代に旧帝国陸軍参謀本部が制定したものとされ、安居神社にある「眞田幸村戦死跡之碑」には戦死の地の選定に関しての参謀本部の関与を示す一文が刻まれている。

信繁を討った松平忠直隊鉄砲組頭西尾宗次は信繁を討ったときを誇張して報告した為に、家康は宗次の「信繁を討ち取った」という報告を真に受けようとしなかったとも言われている。宗次は後に、地元の孝顕寺(福井市)に「真田地蔵」を建立して信繁の菩提を弔っている。

秀頼生存伝承
鹿児島県には、「信繁は合戦で死なず、山伏に化けて秀頼·重成を伴って谷山(鹿児島市)に逃げてきた」という俗説がある。京都大坂では陣の直後あたり、「花の様なる秀頼様を、鬼の様なる真田がつれて、退きものいたよ鹿児島へ」という童歌が流行ったという。

家康討死伝承
「家康は信繁勢に傷つけられ、堺のさる寺(南宗寺)に逃げ込みそこで亡くなった」という俗説があり、南宗寺境内には「家康の墓」も現存している。

大坂城攻城法伝承
大坂冬の陣で家康は一旦和睦し堀を埋め立てた後に再度、兵を挙げる事で大坂城を落としているが、この方法は家康が存命中の秀吉に直接聞いたものという逸話がある。

大坂の役 - Wikipedia
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NHK大河ドラマ天地人「豊臣秀頼」

NHK大河ドラマ天地人」原作・火坂雅志、脚本・小松江里子

豊臣秀頼(とよとみひでより/とよとみのひでより)/羽柴秀頼(はしばひでより)(文禄元年8月3日(1592年9月8日) - 慶長20年5月8日(1615年6月4日)は、日本の安土桃山時代から江戸時代前期にかけて生きた大名。天下人。

幼名は拾丸(ひろいまる)。父は豊臣秀吉、母は側室の茶々(淀殿)。子は側室和期の方(名は伊茶。渡辺氏)との間に国松と、小石の方(おいわのかた。成田氏)との間に天秀尼(彼女の生母については異説がある)。位階は正二位、官職は右大臣。

乳母は宮内卿局・右京大夫局(一説に両者は同一人物とも)・正栄尼が伝わる。また、母淀殿の乳母である大蔵卿局も養育係を務めた。

誕生から秀吉の死まで [編集]
文禄2年(1593年)、秀吉57歳のときの子で、大坂城で誕生した。これまで秀吉のほかの大勢の側室に子ができなかったことから、当時から秀吉の実子ではないのではないかとの噂が絶えなかったという。

誕生のときにはすでに、従兄の秀次が秀吉の養嗣子として関白を譲られ、秀吉の後継者となっていた。秀吉は、当初は秀次と秀頼の関係を調整するため、秀頼誕生の2ヶ月後の文禄2年10月には、秀次の娘(槿姫とも呼ばれるが不詳)と婚約し、秀吉→秀次→秀頼という政権継承が模索されたが、秀吉は、文禄4年(1595年)7月には秀次の関白職を奪い、ついで自刃させた。秀次の子女・妻妾も皆殺しとなり、秀頼の秀吉の継嗣としての地位が確定した。秀吉はこのとき秀頼に忠誠を誓約する起請文を作成し、多数の大名たちに血判署名させている。伏見城が建設され秀吉が居城を移すと秀頼もこれに従って以後ここに住んだ。

慶長元年(1596年)9月、禁裏で元服して諱を秀頼と称す。秀吉は、それまで個人的な独裁体制の色彩が強かった豊臣政権に、御掟・御掟追加などの基本法や五大老・五奉行などの職制を導入して秀頼を補佐する体制を整えた。慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると、秀頼は家督を継ぎ、秀吉の遺命により大坂城に移った。

秀吉死後には五大老の徳川家康が重臣合議制の原則を逸脱して影響力を強め、政権内の対立も深まっていった。五大老の前田利家の死去、七将襲撃事件にともなう五奉行・石田三成の失脚などで、政局の主導権は家康の手に握られてゆく。

関ヶ原合戦 [編集]
慶長5年(1600年)に三成らが家康に対して挙兵する関ヶ原の戦いが勃発すると、秀頼は西軍の総大将として擁立された五大老のひとり毛利輝元の庇護下におかれた。関ヶ原では秀頼の親衛隊である七手組の一部が西軍に参加したが、東西両軍とも「秀頼公のため」の戦いを大義としており、戦後に秀頼は家康を忠義者として労った。だが、家康はその戦後処理において羽柴宗家の所領(いわゆる太閤蔵入地)を勝手に分配し、日本全国に分散して配置されていた約220万石のうち、諸大名に管理を任せていた分を奪われて、秀頼は摂津・河内・和泉の直轄地のみを知行する約65万石の一大名の立場に転落した。ただ、一部の蔵入地からは依然として収入があった形跡がある。

慶長8年(1603年)2月、家康は、鎌倉幕府・室町幕府の最高権力者の地位を象徴する征夷大将軍の官職を獲得し、諸大名を動員して江戸城の普請を行わせ、独自の政権構築を始めた。秀頼はしだいに天下人の座からはずされてゆくことになるが、その後も、摂関家の家格に沿った順調な位階・官職の昇進をとげ、毎年の年頭には公家衆が大坂城に大挙下向して秀頼に参賀しており、また家臣に対して独自の官位叙任権を行使するなど、朝廷からは秀吉生前と同様の礼遇を受けていた。秀頼はなお徳川家と一定の対等性を維持しており、この時期を日本にふたつの政権が併存した「二重公儀体制」と評価する説もある。同年7月、秀頼は、生前の秀吉のはからいで婚約していた徳川秀忠の娘千姫(母は淀殿の妹・お江)と結婚した。慶長10年(1605年)4月、秀頼が右大臣に昇進した機会に、家康は秀頼の上洛と京都での会見を希望するが、淀殿の反対で実現しなかった。このときは家康が断念し、六男松平忠輝を大坂城に派遣して秀頼に面会させている。慶長16年(1611年)3月、家康のはからいで後陽成天皇が後水尾天皇に譲位すると、ついに秀頼は「千姫の祖父に挨拶する」という名目で、加藤清正・浅野幸長に守られつつ上洛し、京都二条城で家康との会見を行った。この会見の意義については、秀頼の家康への臣従を意味すると見る説と、引き続き秀頼が家康との対等性を維持したと見る説とがあり、史家の間でも見解が分かれている
人物 [編集]
秀頼は公家風の教育を受けていたと言われ、伝存する筆跡は高い評価を受けている。淀殿の影響下から脱しきれなかったことなどから小柄で文弱なお坊ちゃまの少年というイメージをいだきがちであるが、実際は身長6尺5寸(約197cm)・体重43貫(約161kg)の並外れた巨漢であったと伝わる(イメージ的には、大相撲力士・貴ノ浪とほぼ同等の体格である)。家康が二条城で秀頼と会見した時に、秀頼の巨体からかもし出されるカリスマ性に恐怖し、豊臣家打倒を決意したと記録するものもあるほど、武将としての威厳はあったとされている。この点は近年のドラマ、舞台などでは忠実に再現され、舞台『SANADA』、大河ドラマ『葵徳川三代』などにおいて成人後の秀頼は身長の面で大柄な役者が演じている。特に後者においては大鎧を着用した姿も描かれ、大柄であったことが強調されている。体重の面を「忠実に」再現した役者としては『春日局』での渡辺徹がその代表である。

このため身長が5尺(約152cm)もないと言われ、平均身長が現在よりかなり低かった戦国時代においても「小柄な武将」として有名だった秀吉の実子かどうかが疑われる一因になっている。ただし、祖父浅井長政や祖母お市が長身だったことを考えると、秀頼が大柄でもなんら不思議はない。

顔には、天然痘の後遺症である痘痕が残っていたともいう。

妻である千姫との仲はよかったらしい。しかし、ふたりの間に子供はできず、側室の子を千姫の養子とした。

蒲鉾が大の好物であったという。

江戸時代に作られた秀頼の伝記『豊内記』では「秀頼公は太閤の遺言に従い、天下の実権を征夷大将軍家康公に執らせて、大坂城に蟄居していた。礼を重んじて義を行い、聖賢の風を慕い凶邪の念を去り、私欲を哀れんで民を哀れみ、国家が豊かになることのみ朝夕念じておられた。故にこの君が政を執っておられたなら、日本に二度延喜・天智の治が現れただろう。人々は大干ばつに雨をもたらす雲を望むが如く、秀頼の政治を待ち望んでいただろう」と描かれている。

また日本研究家レオン・パジェスは著書『日本切支丹宗門史』のなかで「秀頼が失敗したのは彼の頑固な迷信のためで遺憾とするに当たらない」と評している。




生存説 [編集]
秀頼たちが絶命する瞬間を目撃した者がおらず、死体も発見されなかったことから、『日本西教史』(ジャン・クラッセ著)には落城時に死亡とも母・妻をともなって辺境の大名領地に落ち延びたともあり、平戸にいたリチャード・コックスの日記には、城内にて焼死とも薩摩・琉球に逃げたともあり、また、大坂落城後に上方で「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」という童歌がはやったことなどから、秀頼は死亡しておらず秀吉恩顧の武将により密かに救出され落ち延びたとする脱出・生存の風説が流れたことがうかがえる。しかし真相は定かではない。

誰が秀頼をかくまったについては、薩摩島津家や肥後加藤家など諸説がある。

熊本城には「昭君の間」という部屋があり、ここが秀頼の居室であったとの伝承が残されている。
鹿児島県鹿児島市谷山に200人の落人があったが、そのなかに秀頼がいたと噂されたといい『左衞門佐君傳記稿』にはこの地に秀頼公の墳あると記す。
鹿児島県鹿児島市上福元町木之下に「伝秀頼公由緒地」の碑のある石塔の墓がある。
大分県日出町長流寺に、秀頼の息子国松の墓と伝える五輪塔の墓がある。
天草四郎の父親との説もある。天草四郎に豊臣秀綱という名があると鹿児島で伝えられている。
能登国輪島の天領庄屋である時国家の養子となったとの伝承が残されている。

豊臣秀頼 - Wikipedia
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2009年11月09日

NHK大河ドラマ『天地人』第45回「大阪の陣へ」

常盤貴子 豊川悦司のおかげで成長する

この人物のオモテとウラ 「男」も「タイミング」もバッチリ
妻夫木兼続から福山龍馬へ大河バトン
加藤清史郎は黒柳徹子に、大河ドラマ「天地人」でのアノ名ぜりふをリクエストされ、披露する

NHK大河ドラマ天地人」原作・火坂雅志、脚本・小松江里子第45回「大阪の陣へ」11/8

慶長10年(1605年)春、徳川家康(松方弘樹)の嫡男・秀忠(中川晃教)が将軍職を継ぐ。諸大名が祝いに訪れ、上杉も参じるよう命が届く。

直江兼続妻夫木聡)は、まず秀頼に謁見(えっけん)。

秀頼(吉岡澪皇)の脇に8歳になる千姫(田辺桃子)がおり、秀頼(吉岡澪皇)の妻として、徳川家康(松方弘樹)が送り込んできたとわかる。

直江兼続妻夫木聡)には二人は仲むつまじそうに見えたが、秀頼(吉岡澪皇)の母・淀(深田恭子)はどこか寂しそうに見えた

徳川のせいで豊臣家の威光は地に落ち、秀頼が不憫でならないという淀(深田恭子)直江兼続妻夫木聡)は

「上杉とて徳川のやりようを認めたわけではありません。今は苦難のとき、どうか長い目でご覧ください」

その後、上杉景勝北村一輝)とともに徳川家康(松方弘樹)に謁見。

徳川家康(松方弘樹)は、先に秀頼に謁見したことを責めるが、直江兼続妻夫木聡)の機転でその場を切り抜ける。

そして、直江兼続妻夫木聡)は政宗(松田龍平)の仲立ちで秀忠と会談。

直江兼続妻夫木聡)は徳川家康(松方弘樹)が焦っている、と指摘。秀忠は率直な意見を述べてくれたことに礼を言う。

諸大名が祝いに駆けつけるが、そこに豊臣の姿はなかった。心配した高台院(富司純子)は、このままでは豊臣家を滅ぼすことになりかねないと淀(深田恭子)に忠告する。

「天下は秀頼のものにあらずとお思いですか・・私の子が継ぐくらいなら天下は徳川にやっとほうがましとお考えですね」

高台院(富司純子)

「そうではない・・なにがあっても豊臣の血を後世につないでほしい・・私にはそう願うことしか叶わぬのじゃ・・」

そんな中、関ヶ原の戦いで豊臣方として戦った毛利輝元(中尾彬)直江兼続妻夫木聡)の元を訪ねてくる

毛利輝元(中尾彬)

「わしは後悔しているのじゃ、関ヶ原のこと・・敢然と動いておれば・・わしがあの時大阪城を明け渡さねば・・今も豊臣の天下・・民百姓にいらぬ苦労をさせることもなかった・・」

直江兼続妻夫木聡)は

「我らは負けました。今さらそれを悔いたところで何も始まりません・・お心を強くお持ちください。生きていればつらいこともままならぬこともございます。それらすべてに慈愛の一念を持って対することが人としてのあるべき姿と存じます・・さすればきっと天はいつの日か良き報いをくださるでしょう」

毛利輝元(中尾彬)

「ありがとう・・どれほどの救いとなることか・・礼を言う・・ところで、豊臣家と徳川家の不穏な空気・・上杉はどうするのじゃ・・」

上杉景勝北村一輝)もまた苦悩しておりました・・上杉が生き続けるために選んだ道はこれでよかったのか・・と。

「亡き親方さまは戦場において・・死を恐れず潔く、弱きを助け・・それこそ人の人たる道と・・今私のすることを親方さまはどう見ておられるのでしょう」と、仙桃院高島礼子)に吐露。

米沢に戻った直江兼続妻夫木聡)は、勝吉黄川田将也)の再婚話を進める。

直江兼続妻夫木聡)は竹松(加藤清史郎)を気遣うが、竹松(加藤清史郎)は自分も“紅葉のような家臣”になると告げる。

「私も父上と同じ紅葉の家臣ゆえ・一身を捧げ、幹を守る・・果たすべき勤めを心得ております・・」

そんな折、仙桃院高島礼子)が倒れる。

仙桃院高島礼子)は、謙信の遺言がうそだった、母の願いだったことを告白。

驚く上杉景勝北村一輝)に仙桃院高島礼子)は「そなたは謙信公を超えている。そなたの義をつらぬけばよい」と告げ、息をひきとる。

5年後、勝吉黄川田将也)は徳川の命により、本家へ戻される。

勝吉黄川田将也)は

「本来の姿に戻ったといえるのかもしれません・・」

そして竹松改め景明に

「あとは任せたぞ。おぬしこそ直江家の跡継ぎ・・徳川が豊臣を討つあかつきには必ず徳川のお味方を・・それでなければ上杉を守れません・・」

徳川家康(松方弘樹)は、京・方広寺の鐘に「国家安康・君臣豊楽」とあることに目をつけ、秀頼が謀反を企んでいるとして、大坂城攻めを計画、上杉も出陣するよう命を下す。

お松(逢沢りな
お船常盤貴子
泉沢(東幹久)

NHK大河ドラマ『天地人』第44回「哀しみの花嫁」19.5%
NHK大河ドラマ『天地人』第43回「実頼追放」20.9%
NHK大河ドラマ『天地人』第42回「将軍誕生」18.2%
NHK大河ドラマ『天地人』第41回「上杉の生きる道」17.7%
NHK大河ドラマ『天地人』第40回「上杉転落」18.6%

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上地雄輔、一足先に『天地人』の撮影を終え「本当に寂しい」

NHK大河ドラマ『天地人』第39回「三成の遺言」19.5%
NHK大河ドラマ『天地人』第38回「ふたつの関ヶ原」20.0%
NHK大河ドラマ『天地人』第22回〜第37回

NHK大河ドラマ「天地人」第21回「三成の涙」21.0%
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★★★2010年NHK大河ドラマ「龍馬伝」★★★

2008年NHK大河ドラマ『篤姫』

★★★

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2009年11月07日

『天地人』徳川秀忠(中川晃教)

NHK大河ドラマ『天地人』第45回「大阪の陣へ」

この人物のオモテとウラ 「男」も「タイミング」もバッチリ
松田龍平、肋骨折る 母・美由紀トークショーで…

妻夫木兼続から福山龍馬へ大河バトン
加藤清史郎は黒柳徹子に、大河ドラマ「天地人」でのアノ名ぜりふをリクエストされ、披露する

NHK大河ドラマ天地人」原作・火坂雅志、脚本・小松江里子

徳川秀忠
(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代の武将。江戸幕府第2代征夷大将軍。
徳川家康の三男として、遠江国浜松に生まれ、乳母大姥局によって養育される。母は側室の西郷局、実家の西郷氏は、九州の菊池氏一族で、室町初期には守護代をつとめたこともある三河の有力な国人であった。

同母弟に家康の四男松平忠吉がいる。長兄信康は秀忠の生まれた年に死亡、庶兄の秀康は豊臣秀吉の養子に出され、のちに結城氏を継いだので、母親が三河の名家である秀忠が実質的な世子として処遇されることになった。秀吉の推挙により14歳で中納言に任官し、秀吉から羽柴の名字を与えられ「羽柴江戸中納言」と称した。

天正18年(1590年)、秀吉の養女で織田信雄の娘・小姫(春昌院)と祝言を挙げたが、秀吉と信雄が仲違いして信雄が除封されたことにより離縁となる。文禄4年(1595年)には信長の姪で同じく秀吉の養女江(父は浅井長政、母は織田信長の妹市)と再婚。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対して、中山道を進む別働隊を率いる役割を与えられ、9月10日に美濃の赤坂宿に到着する予定(福島家文書に「中納言、さだめて十日時分には其地まで参るべし」)だったが、信濃国上田城攻めで、真田昌幸の激しい抵抗に時間を奪われて9月15日(新暦10月21日)の関ヶ原の戦いには参加できなかった[1]。近年の研究では、このことで軍事面に於いてその無能振りを全国に示した秀忠及び自分の死後の徳川家の将来を悲観した家康が、もともとは秀吉の遺言に従い、徳川・豊臣両家共存の意向だったのを取り止めて、後顧の憂いを絶つべく豊臣家廃絶の道を選んだのではないかとする考えが示されている。[要出典]

そのように軍事面での才能には疑問が持たれる秀忠だが、それでも後継者となったのは家康が秀忠を「守成の時代」の君主に相応しいと考えていたからだと言われている[2](家康は唐の太宗の治世について記した『貞観政要』を読んでおり、当然その中の「守成は創業より難し」という一文も読んでいたと思われる)。律儀に父の路線を守り、出来て間もない江戸幕府の基盤を強固にすることを期待されたのであり、結果として秀忠もそれによく応えたと言えるだろう。ただ、秀忠自身は武将として汚名が付いたことを気にしていたらしく、大坂冬の陣では家康に対して豊臣方への強攻策を主張しており、この戦いに勝利することで汚名を返上しようとしていたのではないか、とする説もある。

征夷大将軍 [編集]
慶長8年(1603年)に征夷大将軍に就いて幕府を開いた家康は、徳川氏による将軍職世襲を確実にするため、慶長10年(1605年)にわずか2年で秀忠に将軍職を譲った。秀忠が将軍職に就任するための上洛時、関東・東北・甲信の諸大名をあわせ10万人規模の軍を率いた。秀忠は江戸城に居住し、駿府城に住む大御所家康との間の二元政治体制になるが、本多正信らの補佐により家康の意を汲んだ政治を執った。大坂の役にも家康とともに参戦して総大将となり、慶長20年(1615年)の戦で、豊臣家重臣・大野治房によって本陣を脅かされた。結局、豊臣家は滅亡し、豊臣秀頼に嫁がせていた娘の千姫は助け出された。その後、家康とともに武家諸法度・禁中並公家諸法度などの制定につとめた。

なお将軍襲職の際、源氏長者、奨学院別当は譲られなかったとする説がある(岡野友彦『源氏と日本国王』)。『徳川実紀』にはなったと書いてあるが、これは没後さかのぼってなったのだというのである。これが事実なら、徳川将軍で唯一源氏長者にならなかった将軍ということになる。

元和2年(1616年)に家康が死去したのちは、将軍親政を開始し酒井忠世、土井利勝らを老中として幕府の中枢を自身の側近で固め、自らリーダーシップを発揮する。大名統制を強化して福島正則ら多くの外様大名を改易し、3人の弟を尾張・紀伊・水戸に配置し、自身の子忠長に駿河・遠江・甲斐を与えた。一方で、弟の松平忠輝・娘婿の松平忠直や家康の謀臣・本多正純を改易・配流にしている。また朝廷に対しても厳しい引き締めを行う一方で、娘の一人和子を後水尾天皇に入内させた。また鎖国政策の布石として、外国船寄港を平戸・長崎に限定させている。

隠居 [編集]
元和9年(1623年)に将軍職を嫡男家光に譲る。父家康に倣って、引退後も実権は手放さず、大御所として二元政治を行った。当初、駿府に引退した家康に倣い、自身は小田原城で政務を執ることを考えていたようだが、結局は江戸城西の丸(現在の皇居)に移った。晩年の寛永6年(1629年)の紫衣事件では朝廷・寺社統制の徹底を示した。寛永8年(1631年)には忠長の領地を召し上げて蟄居を命じるが、このころから体調を崩し、翌寛永9年(1632年)年初めに亡くなった。

家光に対して『徳川実紀』では、「当家夜をありつの日浅く、今まで創建せし綱紀政令、いまだ全備せしにあらざれば、近年のうちにそれぞれ改修せんと思ひしが、今は不幸にして其の事も遂げずなりぬ、我なからむ後に、御身いささか憚る所なく改正し給へば、これぞ我が志を継ぐとも申すべき孝道なれ」との遺言を残している。

徳川家綱(第4代将軍)、徳川綱重、徳川綱吉(第5代将軍)は孫。徳川家宣(第6代将軍)・松平清武は曾孫。徳川家継(第7代将軍)は玄孫にあたる。徳川秀忠 - Wikipedia

中川晃教
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中川 晃教(なかがわ あきのり、1982年11月5日 - )は、日本の男性シンガーソングライター。俳優。

宮城県仙台市出身。小学生時代から作曲を始め、地元の学校に通いながら音楽活動を続ける。東北高等学校を経て、東北文化学園大学入学。

地元のテレビ局でとり上げられ、徳間ジャパンのプロデューサーの目にとまり、2001年「I WILL GET YOUR KISS」でデビュー。TBS系ドラマ「マリア」の主題歌に起用され20万枚を超えるヒットとなる。

2001年、2ndシングル「I say good-bye」(テレビ朝日系ドラマ「最後の家族」主題歌)。

2002年リリースの3rdシングル「White Shiny Street」のビデオクリップには、女優の藤原紀香が出演している。

2002年、帝国劇場ミュージカル「モーツァルト!」主演以来ミュージカル俳優としても活躍中。その初演「モーツァルト!」の主演で、初舞台で数々の賞を受賞するという前例のない快挙を成し遂げた(読売演劇大賞/杉村春子賞/文化庁芸術祭賞/月刊誌「ミュージカル」男優部門第一位など)。

血液型はB型。宮城県が提唱するみやぎ夢大使の一人。

中川晃教 - Wikipedia

★★★

福山雅治が叩かれない理由 大きく分けて二つ
posted by 天地人 at 10:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 『天地人』・キャスト

2009年11月01日

NHK大河ドラマ『天地人』第44回「哀しみの花嫁」

NHK大河ドラマ『天地人』第45回「大阪の陣へ」

この人物のオモテとウラ 「男」も「タイミング」もバッチリ
松田龍平、肋骨折る 母・美由紀トークショーで…

妻夫木兼続から福山龍馬へ大河バトン
加藤清史郎は黒柳徹子に、大河ドラマ「天地人」でのアノ名ぜりふをリクエストされ、披露する

NHK大河ドラマ天地人」原作・火坂雅志、脚本・小松江里子第44回「哀しみの花嫁」11/1

本多政重黄川田将也)が直江家に婿入りし、名を勝吉と改める。

勝吉黄川田将也)が心を開こうとしないことに悩むお松(逢沢りな)を、お船常盤貴子)は時に任せればよい、と励ます。

直江兼続妻夫木聡)は勝吉黄川田将也)に上杉の内情を包み隠さず明かし、家臣たちを驚かす。

一方、江戸では、徳川家康(松方弘樹)が秀忠(中川晃教)に将軍職を譲り、豊臣家との決別を決定的なものとする。そんな折、米沢では、雨で猿尾堰(さるおぜき)が決壊。

直江兼続妻夫木聡)は米沢生まれの政宗(松田龍平)に治水について相談することを思い立つ。

直江兼続妻夫木聡)は勝吉黄川田将也)を伴い政宗(松田龍平)に面会。

政宗(松田龍平)は天下が動く、と直江兼続妻夫木聡)を挑発するが、直江兼続妻夫木聡)は今は民の暮らしこそ大事、と返す。政宗(松田龍平)は治水に詳しい者を送ることを約束する。

その年の暮れ、米沢で病が流行。お梅が亡くなり、お松(逢沢りな)も勝吉黄川田将也)と夫婦になれて幸せだった、と言い残し息をひきとる。

跡継ぎは竹松(加藤清史郎)に譲りたいと話す勝吉黄川田将也)に、直江兼続妻夫木聡)は上杉の鉄砲づくりを見せる。驚く勝吉黄川田将也)に、直江兼続妻夫木聡)はこれからもここで暮らすよう話す。

直江兼続妻夫木聡)のもとを政宗(松田龍平)が訪れ、治水の助言を与える。政宗(松田龍平)は、ここは一つの天下をなしている、と直江兼続妻夫木聡)の街づくりをほめる。感極まり涙を浮かべる直江兼続妻夫木聡)は自分の目指す道を見つけるのだった。

大河ドラマ 天地人

泉沢(東幹久)

NHK大河ドラマ『天地人』第43回「実頼追放」20.9%
NHK大河ドラマ『天地人』第42回「将軍誕生」18.2%
NHK大河ドラマ『天地人』第41回「上杉の生きる道」17.7%
NHK大河ドラマ『天地人』第40回「上杉転落」18.6%

<常盤貴子>長塚圭史と婚姻届提出「魂をしっかりと結ぶ」 公式サイトで発表
加藤清史郎くんに「まいった」 「天地人」の上手すぎる演技
子役の加藤清史郎が作家デビュー〜加藤清史郎はいくらもらっているのか
噂の深層 NHK大河撮影現場も巻き込む深キョンのマイペースぶり

妻夫木聡 「愛のある現場」に涙、『天地人』スタジオ撮影終了

人気子役・加藤清史郎、兼続の長男・竹松役で『天地人』再出演
上地雄輔、一足先に『天地人』の撮影を終え「本当に寂しい」

NHK大河ドラマ『天地人』第39回「三成の遺言」19.5%
NHK大河ドラマ『天地人』第38回「ふたつの関ヶ原」20.0%
NHK大河ドラマ『天地人』第22回〜第37回

★★★2010年NHK大河ドラマ「龍馬伝」★★★

2008年NHK大河ドラマ『篤姫』

★★★

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