2009年07月13日

NHK大河ドラマ「天地人」◆伊達政宗(松田龍平)

11年度NHK大河ドラマは三代将軍・家光の生母・江(ごう)の生涯を描いた『江〜姫たちの戦国〜』に

★★★

NHK大河ドラマ天地人」原作・火坂雅志、脚本・小松江里子

天地人

第28回「北の独眼竜」7/12

伊達政宗松田龍平

兼続の永遠のライバル。18歳で家督を相続し、伊達家17代を継承する。派手好きで自己主張の強いその性格は、兼続の正反対。母の愛に餓えた壮絶な幼少期の影響で、全てを手に入れたいという支配欲が極めて強い。若くして奥州の覇者の名をほしいままにしていたが、秀吉の台頭により天下人になるという野望は挫折。

「関ヶ原の戦い」以降も徳川家に仕えつつ、幕府転覆の機会をうかがっていた
大河ドラマ 天地人

伊達政宗だてまさむね、1567年9月5日 - 1636年6月27日)は、戦国時代の武将。出羽国(羽州)と陸奥国(奥州)の戦国大名。陸奥仙台藩の初代藩主。

本姓は藤原氏。家系は伊達朝宗を祖とする伊達氏。第16代当主・伊達輝宗と最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の嫡男。幼名は梵天丸、字は藤次郎、諡号は貞山。神号は武振彦命で、青葉神社に祭られる。

幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、また、戦国屈指の教養人として、豪華絢爛を好むことで知られていた。諱の「政宗」は伊達家中興の祖といわれる室町時代の第9代当主・大膳大夫政宗にあやかったもので、この大膳大夫政宗と区別するべく藤次郎政宗と呼ぶことも多い。

永禄10年(1567年)、出羽米沢の米沢城に生まれる[1]。元亀2年(1571年)、疱瘡(天然痘)に罹り右目を失明する。当時、天然痘を治す治療方法はなく、死の病であった。

豊臣秀吉や徳川家康に「右目はどうしたのか?」と聞かれた際において、政宗は「木から落ちたとき、右目が出てきてしまったが、あまりに美味しそうだったので、食べてしまった」と語っている[2]。 また、片倉景綱が容貌を悪くしていた右目を短刀で摘出したという逸話もある。

元亀3年(1572年)、政宗の将来を心配した父・輝宗が招いた臨済宗の虎哉宗乙(こさいそういつ)禅師による厳しい教育が始められ、仏教や漢学を学ぶ。天正3年(1575年)、神職の子である片倉景綱が守り役を命ぜられ側近となる。景綱は政宗の側近中の側近として、時には軍師として生涯忠誠を尽くした。

天正5年(1577年)に元服、天正7年(1579年)には仙道の戦国大名で三春城主田村清顕の娘愛姫を正室とする。天正9年(1581年)、隣接する戦国大名・相馬氏への侵攻に15歳で初陣し、勝利を収める。

天正12年(1584年)に18歳で家督を相続し、伊達家17代を継承する。父・輝宗は41歳の働き盛りでもあり、政宗は当初、若年を理由に辞退を申し出たが、政宗の武将としての素質を見抜いていた輝宗の決意は固く、家督を相続することとなった。

慶長6年(1601年)には仙台城、仙台城下町の建設をはじめ、居城を移す。ここに、伊達政宗を藩祖とする仙台藩が誕生した。仙台藩・62万石は加賀・前田氏、薩摩・島津氏に次ぐ全国第3位であるが、それは表高であり、仙台藩の実高は優に100万石を越えていたといわれる。

伊達政宗 - Wikipedia



posted by 天地人 at 04:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 『天地人』・キャスト
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