2009年09月28日

NHK大河ドラマ『天地人』小早川秀秋:(上地雄輔)

NHK大河ドラマ天地人

小早川秀秋上地雄輔)木下家定(豊臣秀吉の正室・高台院の兄)の5男として生まれる。叔父である秀吉の養子になり羽柴秀俊と名乗る。その後、秀吉の命で小早川隆景の養子として小早川家に入り秀秋と改名する。

「関ヶ原の戦い」では西軍に参戦するが、合戦途中に東軍への加担を決意、西軍を攻撃、東軍大勝の立役者となった。この戦功により、備前・美作の55万石を与えられ備前岡山城主となる。

大河ドラマ 天地人

小早川秀秋(こばやかわひであき、1582年 - 1602年12月1日)は、安土桃山時代から江戸時代初頭の大名。木下家定の子で、豊臣秀吉の正室・高台院の甥にあたる[1]。正室は毛利輝元の養女(実父は宍戸元秀、祖母は毛利元就の長女)。従三位、権中納言。筑前を領有したため筑前中納言、左衛門督を兼ねたことから、小早川金吾、金吾中納言とも称された。関ヶ原戦い以後、秀詮(読みは「ひであき」と変わらない)と改名するが秀秋と表記されることが多い。

● 出生から大名へ

木下家定(豊臣秀吉の正室高台院の兄)の5男として生まれる。母は杉原家次の娘。幼名は辰之助。元服時の初名は木下 秀俊(きのした ひでとし)。天正13年(1585年)、羽柴秀吉の養子になり羽柴秀俊と名乗る。天正17年(1589年)、病死した豊臣秀勝の旧領地・丹波亀山10万石を与えられる。文禄元年(1592年)、従三位・権中納言に叙任。

文禄3年(1594年)、秀吉の命にて小早川隆景の養子として小早川家に入った[2]。官職は中納言だったが、元服時に受けた官位「左衛門督」の唐名「執金吾」とあわせて「金吾中納言」と称された。文禄4年(1595年)、豊臣秀次事件に連座して丹波亀山を没収される。同年に養父・隆景が隠居し、その領地であった筑前、筑後・肥前の一部30万7000石を継承し、筑前名島城主となった。小早川領継承にあたっては豊臣政権から補佐役として派遣された山口宗永が隆景家臣の鵜飼元辰らから引き継ぎを受け、また太閤検地を実施して領内石高が定められた。

● 慶長の役

慶長2年(1597年)2月1日、秀秋は秀吉より朝鮮出兵の命令を受け、5月22日に大阪より筑前へ帰り、6月29日に名護屋を発ち、7月17日に釜山へ上陸している。なお、秀秋は朝鮮在陣期に名乗りを秀俊から秀秋と改名している。慶長の役の侵攻期には留守番部隊の大将として釜山及び周辺を1万人で守備し、小早川勢が梁山倭城の普請を担当した。12月からの蔚山城の戦いでは、小早川勢を率いる山口宗永が西生浦倭城経由で明の大軍に包囲された蔚山倭城の救援に向かった。1598年1月1日付で籠城戦中の蔚山倭城から加藤清正が発した救援依頼の書状の宛先の1人が秀秋となっているが、同1月付の小早川勢関係の秀吉宛書状の発信者及び秀吉書状の宛先は山口宗永となっている。帰国途上の秀秋が直接この戦いに関わっていたのかは不明である。秀秋帰国後も小早川勢は500人ほどの残留部隊が寺沢正成の指揮下で釜山の守備に就いたが5月中には帰国している。

秀秋は蔚山城の戦いに先立つ慶長2年(1597年)12月4日付の秀吉朱印状で帰国と上洛を命ぜられており、翌年1月29日に朝鮮より帰国の途につき、その後越前北庄15万石への転封を命ぜられた。一説では初陣で自ら槍を手に敵将を生け捕りにするなど活躍するが、本来、大将である秀秋は釜山城を守備すべきであったものの、蔚山倭城の救援に向かったことが軽率な行動と批判されたとも言われるが、前述の通り帰国命令は戦いに先立って発令されている。九州の旧小早川領は豊臣直轄地となり石田三成が代官に派遣され、後に浅野長政も代官に加えられた。またこの処置は石田三成の讒言によるとも言われるが定かではない。しかし、慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去した翌年初頭に北庄転封は取り消され、旧領の筑前名島へ復帰した。この時徳川家康から取り成しを受けたとされるが、秀吉の死後になって秀秋の復領に口添えしたのみで、実際には取り成してはいない。[要出典]慶長4年(1599年)1月より旧領に復帰した秀秋は農民保護対策を打ち出し、朝鮮征伐で疲弊した農村の復興に努めるが2年ほどで関ヶ原を迎えることになる。また、石高の大幅減封となった越前北庄転封を期に旧隆景系家臣の多くが秀秋の元を去っており、小早川家継承時に豊臣政権より派遣されていた補佐役の山口宗永もこのとき加賀大聖寺の独立大名に取り立てられている。

● 関ヶ原の戦い

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慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に参戦。伏見城攻略戦に参加して戦功を挙げたものの、この戦功を三成が認めなかったため激怒したとも言われている[要出典]。また一説に、当初から東軍と内通していたとも言われる。東軍として姫路城に入城する予定だったのが兄の姫路城代に断られて、今度は伏見城に入城しようものの城将の鳥居元忠にも拒絶されたためにやむなく西軍に加わったとされる。現在に残る書状として、三成から関白の地位を約束され西軍への同心を促すもの、黒田長政と浅野幸長の連名による「我々は北政所(高台院)様の為に動いている」と書かれたものの二通ある。

秀秋の行動に不審を感じていた石田三成・大谷吉継らは、西軍勝利の暁には豊臣秀頼が成人するまでの間、関白職への就任と、上方2ヶ国の加増を約束するなどして西軍への残留工作を行っている。決戦当日、秀秋は松尾山に1万5000[3]の大軍を率いて布陣した。この時、松尾山には西軍の一部将兵が入っていたが、秀秋は軍勢の数にものを言わせてこれらを追い出して松尾山に陣を敷いている(この時点で東軍に加わったとも考えられる)。また、秀秋の松尾山占拠によってラインが分断される事を三成が危惧したため関ヶ原での戦闘が始まったという説がある。

秀秋の心は東軍にあったとされるが、午前中の戦況は西軍有利に推移しており、東軍参加を躊躇したという説と、徳川秀忠が3万8千の大軍を率いて関ヶ原に向かっていたが、一向に現れないことに不審を抱き参戦しなかったという説もある。あるいは単に攻撃に出るタイミングを見計らっていただけなのかもしれない。この時既に小早川隊には家康から監視役として奥平貞治が派遣されており、東軍への寝返り自体は戦う前から確定していたといえる。『黒田家譜』では戦前に東軍への内通を約束しながらその動きを見せない秀秋に対し、家康が苛立つ描写が見られる。

何度も使者を送って攻撃命令を下すものの、軍を動かさない秀秋に痺れを切らせた家康は、秀秋の陣へ威嚇発砲させた。それに動揺した秀秋はついに東軍への加担を決意、松尾山を下って西軍の大谷隊を攻撃したとされる。この通説について現代の実地調査では、地理的条件や当時使用されていた銃の銃声の大きさや、現場は合戦中であり騒々しいことから推測すると、秀秋の本陣まで銃声は聞こえなかった、もしくは家康からの銃撃であるとは識別できなかった可能性が高いことも指摘されている[4]。秀秋の最終的な判断に関しては、秀秋の腹心である平岡頼勝、稲葉正成ら親徳川派武将の存在も影響していたと見られる。

なお、小早川隊で先方を務める松野重元は主君の裏切り行為に納得できず攻撃に反対・離反した。

突然の裏切りだったが、小早川隊の裏切りを予測していた大谷隊は予備兵力600や配下の平塚・戸田隊でこれを迎撃。数に任せて攻め込んだ筈の小早川隊は圧倒的兵力差にも関わらず無様な遁走を演じ、3度も大谷隊に追い立てられたという。しかし、小早川同様東軍と内通していた脇坂安治、赤座直保ら西軍の諸将が次々と寝返りに及び、平塚・戸田両隊が壊滅。大谷隊も遂に支えきれず敗走し、大谷吉継は自害した。なお、脇坂ら4将は元々小早川隊の内応に備え配置されていたが、小早川隊が寝返り後これらの部隊を無視し真っ先に大谷隊に攻め込んでいることから、これらの武将も東軍同様小早川隊と連絡を取り合っていたと考える方が自然である。

この参戦により大勢は決し、夕刻までに西軍は壊滅、石田三成は大坂を目指し伊吹山中へ逃亡する。

● 岡山藩主

関ヶ原本戦の終了後、家康の命により脇坂ら4将と共に三成の父である石田正継の守る佐和山城に攻撃を仕掛け激闘の末、これを落城させる戦功を挙げている。戦後の論功行賞では宇喜多秀家領であった備前と美作に移封され、岡山藩55万石(50万石とも)に加増された。この頃から名乗りを秀詮(ひであき)と変え、岡山中納言と呼ばれた。

かくして、大封を得た秀秋は岡山城を改築し、以前の2倍の外堀をわずか20日間で完成させた。そして検地の実施、寺社の復興、農地の整備など急速な近代化を進めた。しかし、重臣の稲葉正成が出奔、村山越中が杉原重治を殺すという事件もおきている。そして、関ヶ原の合戦からわずか2年後の慶長7年(1602年)に死去。享年21(不定説あり)。無嗣につき、小早川家は断絶。これは徳川政権初の無嗣改易である。秀秋の死後、小早川家の旧臣は関ヶ原での裏切りを責められたため、仕官先がなかったと言われることもあるが、事実ではない[6]。法名:瑞雲院秀巌日詮。墓所:岡山県岡山市の瑞雲寺。

また、秀秋に羽柴秀行という子がいたとの説もある。それによると秀秋の死後に側室から秀行が生まれ、秀秋の兄・木下勝俊に養われたという。そして、子孫は備中足守藩木下家の家臣となり、小早川氏の旧姓である土肥氏を名乗ったという。

● 死因

21歳という早すぎる死因として、様々な説があるが推測の域を出ない。また、同年同日同所で兄弟2人(木下俊定、木下某)も死亡したという記述が『舜旧記』(神龍院梵舜が記した日記)にある。某を秀規とする説があるがこれは秀規は大坂の陣で大坂城に入城し、秀頼に殉じているため史実と異なる。

暗殺説も存在する。一方で、巷では関ヶ原の戦いで自害に追い詰められた大谷吉継の祟りではないかと噂された。上述の備前軍記によると、鷹狩に出かけたとき、気に食わない農民を手討ちにしようとして、その農民の抵抗にあい、股間を蹴り上げられて死亡したと言われる。

なお小早川家は断絶したが、明治になって再興の勅命(毛利家からの願出によると思われる)が下り、毛利本家から毛利三郎が小早川家に入ることで再興された。

● 人物

優柔不断かつ暗愚な武将として現代に至るまで評されることが多いが、これは関ヶ原での裏切りによる後世の印象が大きいことによる。小早川秀秋のことを、裏切ったというだけで織田信雄以下の暗君だと結論づけている文献もあり、「裏切中納言」などと感情的に非難されることもあった。しかし、裏切りが必ずしも成功するわけではなく、1万5600人もの大兵力を率いていた秀秋の寝返りによって東軍の勝利を決定づけたこと、更に戦後その功績を家康に認められ備前岡山に大封を得たことなど、善悪はどうあれ秀秋が関ヶ原の戦いの趨勢を決めた重要人物であったことに疑問の余地は無い。その「裏切り」にしても、伏見城攻め後に家康に詫び状を出していること、戦術的要地である松尾山を占拠していた西軍を追い出してそこに陣を布いたこと、関ヶ原の合戦直前に東軍の福島正則と書簡のやり取りをしていることなどから、関ヶ原の戦いの前に既に東軍に与していたという説もある。西軍首脳の大谷吉継も松尾山の小早川隊を囲むようにして脇坂・朽木・小川・赤座ら4将を配置しており、秀秋は西軍側からもその去就が疑われていたと推察される。

秀秋が後世に至るまで蛇蝎のごとく嫌われる理由としては以下の点があげられる。

土壇場での寝返りによって西軍を敗北させたこと。
大谷吉継、戸田勝成、平塚為広の奮戦との対比によるイメージの悪さ。
豊臣家を守る藩屏としての役割を期待される立場でありながら、後に豊臣家を滅ぼすことになる徳川家康に味方したこと。
戦後すぐに夭折し小早川家も廃絶、結果裏切り者の汚名を返上する機会が与えられなかったこと。
関ヶ原での裏切りにより後世に悪名を残したものの、秀秋は初陣である慶長の役の蔚山城の戦いでは、敵に包囲された加藤清正を救出するなど大きな武功を上げ、備前岡山では家老の補佐があったとはいえ無難な統治手腕を発揮している。他の兄弟を差し置いて秀吉の養子になり、小早川家を相続しているという事実からも、秀秋が暗愚であったという通説に疑問を呈する研究者も少なくない。そのような実績の反面、筑前太守であった頃の行跡は不品行で[7]、家臣から度々の諫言を受けると逆上して手討ちにしたり、実際に秀秋の暗愚を見放して小早川家を去った重臣も居たなど、秀秋が当時の共通認識である「胡乱の人」という評判を裏付けるような悪行を行っていたという記録が残っているのも事実である[8]。秀秋に対する実証的な研究はまだ過渡期であり、今後一層の成果が期待されている。

日本史上の一大転機である関ヶ原の戦いのキャスティング・ボートを握ったことから、秀秋は歴史小説やテレビドラマなどのフィクションで、重要な役柄を与えられることが多い。それら創作物の中での秀秋の扱いは作品ごとに様々であるが、若年にして大封を得て戸惑い、信頼できる有能な家臣も居ずに東西両軍の間で右往左往するといった姿で描かれる傾向がある。司馬遼太郎の『関ヶ原』では、通説の暗愚で優柔不断な小早川秀秋像をそのまま踏襲するような描写がなされた。隆慶一郎原作、原哲夫作画の『影武者徳川家康』では、暗愚で優柔不断なだけでなく、利己的で冷酷かつ極めて幼稚な人物として登場した。NHK大河ドラマ『功名が辻』では高台院に、『天地人』では直江兼続・上杉景勝に悩みを打ち明けて、身の振り方を尋ねている描写があった。

東京国立博物館には秀秋所用と伝わる「猩々緋羅紗地違い鎌模様陣羽織(しょうじょうひ らしゃじちがい がまもよう じんばおり)」(重要文化財)が所蔵されている。猩々緋とは、能「猩々」で使われる面の顔色の様に鮮やかな緋色のことで、桃山時代に南蛮貿易によってもたらされ生地としてしばしば用いられた。デザイン化された交差した大鎌をアップリケとして大胆に用いており、当時の武将の装束をよく今に伝える優品である。

小早川秀秋 - Wikipedia

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