2009年11月07日

『天地人』徳川秀忠(中川晃教)

NHK大河ドラマ『天地人』第45回「大阪の陣へ」

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NHK大河ドラマ天地人」原作・火坂雅志、脚本・小松江里子

徳川秀忠
(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代の武将。江戸幕府第2代征夷大将軍。
徳川家康の三男として、遠江国浜松に生まれ、乳母大姥局によって養育される。母は側室の西郷局、実家の西郷氏は、九州の菊池氏一族で、室町初期には守護代をつとめたこともある三河の有力な国人であった。

同母弟に家康の四男松平忠吉がいる。長兄信康は秀忠の生まれた年に死亡、庶兄の秀康は豊臣秀吉の養子に出され、のちに結城氏を継いだので、母親が三河の名家である秀忠が実質的な世子として処遇されることになった。秀吉の推挙により14歳で中納言に任官し、秀吉から羽柴の名字を与えられ「羽柴江戸中納言」と称した。

天正18年(1590年)、秀吉の養女で織田信雄の娘・小姫(春昌院)と祝言を挙げたが、秀吉と信雄が仲違いして信雄が除封されたことにより離縁となる。文禄4年(1595年)には信長の姪で同じく秀吉の養女江(父は浅井長政、母は織田信長の妹市)と再婚。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対して、中山道を進む別働隊を率いる役割を与えられ、9月10日に美濃の赤坂宿に到着する予定(福島家文書に「中納言、さだめて十日時分には其地まで参るべし」)だったが、信濃国上田城攻めで、真田昌幸の激しい抵抗に時間を奪われて9月15日(新暦10月21日)の関ヶ原の戦いには参加できなかった[1]。近年の研究では、このことで軍事面に於いてその無能振りを全国に示した秀忠及び自分の死後の徳川家の将来を悲観した家康が、もともとは秀吉の遺言に従い、徳川・豊臣両家共存の意向だったのを取り止めて、後顧の憂いを絶つべく豊臣家廃絶の道を選んだのではないかとする考えが示されている。[要出典]

そのように軍事面での才能には疑問が持たれる秀忠だが、それでも後継者となったのは家康が秀忠を「守成の時代」の君主に相応しいと考えていたからだと言われている[2](家康は唐の太宗の治世について記した『貞観政要』を読んでおり、当然その中の「守成は創業より難し」という一文も読んでいたと思われる)。律儀に父の路線を守り、出来て間もない江戸幕府の基盤を強固にすることを期待されたのであり、結果として秀忠もそれによく応えたと言えるだろう。ただ、秀忠自身は武将として汚名が付いたことを気にしていたらしく、大坂冬の陣では家康に対して豊臣方への強攻策を主張しており、この戦いに勝利することで汚名を返上しようとしていたのではないか、とする説もある。

征夷大将軍 [編集]
慶長8年(1603年)に征夷大将軍に就いて幕府を開いた家康は、徳川氏による将軍職世襲を確実にするため、慶長10年(1605年)にわずか2年で秀忠に将軍職を譲った。秀忠が将軍職に就任するための上洛時、関東・東北・甲信の諸大名をあわせ10万人規模の軍を率いた。秀忠は江戸城に居住し、駿府城に住む大御所家康との間の二元政治体制になるが、本多正信らの補佐により家康の意を汲んだ政治を執った。大坂の役にも家康とともに参戦して総大将となり、慶長20年(1615年)の戦で、豊臣家重臣・大野治房によって本陣を脅かされた。結局、豊臣家は滅亡し、豊臣秀頼に嫁がせていた娘の千姫は助け出された。その後、家康とともに武家諸法度・禁中並公家諸法度などの制定につとめた。

なお将軍襲職の際、源氏長者、奨学院別当は譲られなかったとする説がある(岡野友彦『源氏と日本国王』)。『徳川実紀』にはなったと書いてあるが、これは没後さかのぼってなったのだというのである。これが事実なら、徳川将軍で唯一源氏長者にならなかった将軍ということになる。

元和2年(1616年)に家康が死去したのちは、将軍親政を開始し酒井忠世、土井利勝らを老中として幕府の中枢を自身の側近で固め、自らリーダーシップを発揮する。大名統制を強化して福島正則ら多くの外様大名を改易し、3人の弟を尾張・紀伊・水戸に配置し、自身の子忠長に駿河・遠江・甲斐を与えた。一方で、弟の松平忠輝・娘婿の松平忠直や家康の謀臣・本多正純を改易・配流にしている。また朝廷に対しても厳しい引き締めを行う一方で、娘の一人和子を後水尾天皇に入内させた。また鎖国政策の布石として、外国船寄港を平戸・長崎に限定させている。

隠居 [編集]
元和9年(1623年)に将軍職を嫡男家光に譲る。父家康に倣って、引退後も実権は手放さず、大御所として二元政治を行った。当初、駿府に引退した家康に倣い、自身は小田原城で政務を執ることを考えていたようだが、結局は江戸城西の丸(現在の皇居)に移った。晩年の寛永6年(1629年)の紫衣事件では朝廷・寺社統制の徹底を示した。寛永8年(1631年)には忠長の領地を召し上げて蟄居を命じるが、このころから体調を崩し、翌寛永9年(1632年)年初めに亡くなった。

家光に対して『徳川実紀』では、「当家夜をありつの日浅く、今まで創建せし綱紀政令、いまだ全備せしにあらざれば、近年のうちにそれぞれ改修せんと思ひしが、今は不幸にして其の事も遂げずなりぬ、我なからむ後に、御身いささか憚る所なく改正し給へば、これぞ我が志を継ぐとも申すべき孝道なれ」との遺言を残している。

徳川家綱(第4代将軍)、徳川綱重、徳川綱吉(第5代将軍)は孫。徳川家宣(第6代将軍)・松平清武は曾孫。徳川家継(第7代将軍)は玄孫にあたる。徳川秀忠 - Wikipedia

中川晃教
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中川 晃教(なかがわ あきのり、1982年11月5日 - )は、日本の男性シンガーソングライター。俳優。

宮城県仙台市出身。小学生時代から作曲を始め、地元の学校に通いながら音楽活動を続ける。東北高等学校を経て、東北文化学園大学入学。

地元のテレビ局でとり上げられ、徳間ジャパンのプロデューサーの目にとまり、2001年「I WILL GET YOUR KISS」でデビュー。TBS系ドラマ「マリア」の主題歌に起用され20万枚を超えるヒットとなる。

2001年、2ndシングル「I say good-bye」(テレビ朝日系ドラマ「最後の家族」主題歌)。

2002年リリースの3rdシングル「White Shiny Street」のビデオクリップには、女優の藤原紀香が出演している。

2002年、帝国劇場ミュージカル「モーツァルト!」主演以来ミュージカル俳優としても活躍中。その初演「モーツァルト!」の主演で、初舞台で数々の賞を受賞するという前例のない快挙を成し遂げた(読売演劇大賞/杉村春子賞/文化庁芸術祭賞/月刊誌「ミュージカル」男優部門第一位など)。

血液型はB型。宮城県が提唱するみやぎ夢大使の一人。

中川晃教 - Wikipedia

★★★

福山雅治が叩かれない理由 大きく分けて二つ


posted by 天地人 at 10:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 『天地人』・キャスト
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