2009年11月15日

NHK大河ドラマ天地人「豊臣秀頼」

NHK大河ドラマ天地人」原作・火坂雅志、脚本・小松江里子

豊臣秀頼(とよとみひでより/とよとみのひでより)/羽柴秀頼(はしばひでより)(文禄元年8月3日(1592年9月8日) - 慶長20年5月8日(1615年6月4日)は、日本の安土桃山時代から江戸時代前期にかけて生きた大名。天下人。

幼名は拾丸(ひろいまる)。父は豊臣秀吉、母は側室の茶々(淀殿)。子は側室和期の方(名は伊茶。渡辺氏)との間に国松と、小石の方(おいわのかた。成田氏)との間に天秀尼(彼女の生母については異説がある)。位階は正二位、官職は右大臣。

乳母は宮内卿局・右京大夫局(一説に両者は同一人物とも)・正栄尼が伝わる。また、母淀殿の乳母である大蔵卿局も養育係を務めた。

誕生から秀吉の死まで [編集]
文禄2年(1593年)、秀吉57歳のときの子で、大坂城で誕生した。これまで秀吉のほかの大勢の側室に子ができなかったことから、当時から秀吉の実子ではないのではないかとの噂が絶えなかったという。

誕生のときにはすでに、従兄の秀次が秀吉の養嗣子として関白を譲られ、秀吉の後継者となっていた。秀吉は、当初は秀次と秀頼の関係を調整するため、秀頼誕生の2ヶ月後の文禄2年10月には、秀次の娘(槿姫とも呼ばれるが不詳)と婚約し、秀吉→秀次→秀頼という政権継承が模索されたが、秀吉は、文禄4年(1595年)7月には秀次の関白職を奪い、ついで自刃させた。秀次の子女・妻妾も皆殺しとなり、秀頼の秀吉の継嗣としての地位が確定した。秀吉はこのとき秀頼に忠誠を誓約する起請文を作成し、多数の大名たちに血判署名させている。伏見城が建設され秀吉が居城を移すと秀頼もこれに従って以後ここに住んだ。

慶長元年(1596年)9月、禁裏で元服して諱を秀頼と称す。秀吉は、それまで個人的な独裁体制の色彩が強かった豊臣政権に、御掟・御掟追加などの基本法や五大老・五奉行などの職制を導入して秀頼を補佐する体制を整えた。慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると、秀頼は家督を継ぎ、秀吉の遺命により大坂城に移った。

秀吉死後には五大老の徳川家康が重臣合議制の原則を逸脱して影響力を強め、政権内の対立も深まっていった。五大老の前田利家の死去、七将襲撃事件にともなう五奉行・石田三成の失脚などで、政局の主導権は家康の手に握られてゆく。

関ヶ原合戦 [編集]
慶長5年(1600年)に三成らが家康に対して挙兵する関ヶ原の戦いが勃発すると、秀頼は西軍の総大将として擁立された五大老のひとり毛利輝元の庇護下におかれた。関ヶ原では秀頼の親衛隊である七手組の一部が西軍に参加したが、東西両軍とも「秀頼公のため」の戦いを大義としており、戦後に秀頼は家康を忠義者として労った。だが、家康はその戦後処理において羽柴宗家の所領(いわゆる太閤蔵入地)を勝手に分配し、日本全国に分散して配置されていた約220万石のうち、諸大名に管理を任せていた分を奪われて、秀頼は摂津・河内・和泉の直轄地のみを知行する約65万石の一大名の立場に転落した。ただ、一部の蔵入地からは依然として収入があった形跡がある。

慶長8年(1603年)2月、家康は、鎌倉幕府・室町幕府の最高権力者の地位を象徴する征夷大将軍の官職を獲得し、諸大名を動員して江戸城の普請を行わせ、独自の政権構築を始めた。秀頼はしだいに天下人の座からはずされてゆくことになるが、その後も、摂関家の家格に沿った順調な位階・官職の昇進をとげ、毎年の年頭には公家衆が大坂城に大挙下向して秀頼に参賀しており、また家臣に対して独自の官位叙任権を行使するなど、朝廷からは秀吉生前と同様の礼遇を受けていた。秀頼はなお徳川家と一定の対等性を維持しており、この時期を日本にふたつの政権が併存した「二重公儀体制」と評価する説もある。同年7月、秀頼は、生前の秀吉のはからいで婚約していた徳川秀忠の娘千姫(母は淀殿の妹・お江)と結婚した。慶長10年(1605年)4月、秀頼が右大臣に昇進した機会に、家康は秀頼の上洛と京都での会見を希望するが、淀殿の反対で実現しなかった。このときは家康が断念し、六男松平忠輝を大坂城に派遣して秀頼に面会させている。慶長16年(1611年)3月、家康のはからいで後陽成天皇が後水尾天皇に譲位すると、ついに秀頼は「千姫の祖父に挨拶する」という名目で、加藤清正・浅野幸長に守られつつ上洛し、京都二条城で家康との会見を行った。この会見の意義については、秀頼の家康への臣従を意味すると見る説と、引き続き秀頼が家康との対等性を維持したと見る説とがあり、史家の間でも見解が分かれている
人物 [編集]
秀頼は公家風の教育を受けていたと言われ、伝存する筆跡は高い評価を受けている。淀殿の影響下から脱しきれなかったことなどから小柄で文弱なお坊ちゃまの少年というイメージをいだきがちであるが、実際は身長6尺5寸(約197cm)・体重43貫(約161kg)の並外れた巨漢であったと伝わる(イメージ的には、大相撲力士・貴ノ浪とほぼ同等の体格である)。家康が二条城で秀頼と会見した時に、秀頼の巨体からかもし出されるカリスマ性に恐怖し、豊臣家打倒を決意したと記録するものもあるほど、武将としての威厳はあったとされている。この点は近年のドラマ、舞台などでは忠実に再現され、舞台『SANADA』、大河ドラマ『葵徳川三代』などにおいて成人後の秀頼は身長の面で大柄な役者が演じている。特に後者においては大鎧を着用した姿も描かれ、大柄であったことが強調されている。体重の面を「忠実に」再現した役者としては『春日局』での渡辺徹がその代表である。

このため身長が5尺(約152cm)もないと言われ、平均身長が現在よりかなり低かった戦国時代においても「小柄な武将」として有名だった秀吉の実子かどうかが疑われる一因になっている。ただし、祖父浅井長政や祖母お市が長身だったことを考えると、秀頼が大柄でもなんら不思議はない。

顔には、天然痘の後遺症である痘痕が残っていたともいう。

妻である千姫との仲はよかったらしい。しかし、ふたりの間に子供はできず、側室の子を千姫の養子とした。

蒲鉾が大の好物であったという。

江戸時代に作られた秀頼の伝記『豊内記』では「秀頼公は太閤の遺言に従い、天下の実権を征夷大将軍家康公に執らせて、大坂城に蟄居していた。礼を重んじて義を行い、聖賢の風を慕い凶邪の念を去り、私欲を哀れんで民を哀れみ、国家が豊かになることのみ朝夕念じておられた。故にこの君が政を執っておられたなら、日本に二度延喜・天智の治が現れただろう。人々は大干ばつに雨をもたらす雲を望むが如く、秀頼の政治を待ち望んでいただろう」と描かれている。

また日本研究家レオン・パジェスは著書『日本切支丹宗門史』のなかで「秀頼が失敗したのは彼の頑固な迷信のためで遺憾とするに当たらない」と評している。




生存説 [編集]
秀頼たちが絶命する瞬間を目撃した者がおらず、死体も発見されなかったことから、『日本西教史』(ジャン・クラッセ著)には落城時に死亡とも母・妻をともなって辺境の大名領地に落ち延びたともあり、平戸にいたリチャード・コックスの日記には、城内にて焼死とも薩摩・琉球に逃げたともあり、また、大坂落城後に上方で「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」という童歌がはやったことなどから、秀頼は死亡しておらず秀吉恩顧の武将により密かに救出され落ち延びたとする脱出・生存の風説が流れたことがうかがえる。しかし真相は定かではない。

誰が秀頼をかくまったについては、薩摩島津家や肥後加藤家など諸説がある。

熊本城には「昭君の間」という部屋があり、ここが秀頼の居室であったとの伝承が残されている。
鹿児島県鹿児島市谷山に200人の落人があったが、そのなかに秀頼がいたと噂されたといい『左衞門佐君傳記稿』にはこの地に秀頼公の墳あると記す。
鹿児島県鹿児島市上福元町木之下に「伝秀頼公由緒地」の碑のある石塔の墓がある。
大分県日出町長流寺に、秀頼の息子国松の墓と伝える五輪塔の墓がある。
天草四郎の父親との説もある。天草四郎に豊臣秀綱という名があると鹿児島で伝えられている。
能登国輪島の天領庄屋である時国家の養子となったとの伝承が残されている。

豊臣秀頼 - Wikipedia


posted by 天地人 at 07:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 『天地人』・キャスト
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