2010年07月09日

NHK大河ドラマ『天地人』樋口与七〜大国実頼(小泉孝太郎)

NHK大河ドラマ天地人」1/4〜

戦国時代の乱世に愛の文字を兜に掲げ、自分の信じた道を生きた武将・直江兼続妻夫木聡)の生涯を描く。

「愛」という字を前立にあしらった兜・・「愛」は「愛染明王」又は「愛宕権現」からの由来といわれている。兜は米沢市上杉神社稽照殿や米沢市の宮坂考古館に保管されている

原作:火坂雅志(2006年に発表)

脚本:小松江里子(2007年朝の連続テレビ小説『どんど晴れ』)

語り:宮本信子

NHK大河ドラマ天地人

樋口与七小泉孝太郎):樋口忽右衛門の次男。後に武功を重ね、大黒実頼と名を改める。兄の兼続とは良きライバル

大国実頼
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大国実頼おおくにさねより)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。上杉氏の家臣。直江兼続の弟に当たる。

永禄5年(1562年)、樋口兼豊の次男として生まれる。幼名は与七。上杉謙信死後の御館の乱では上杉景勝方として戦い、天正10年(1582年)、景勝の命により天神山城主小国重頼の養子となって小国氏の家督を相続した。高野山の『越後国供養帳』によると、実頼は天正13年(1585年)8月18日に亡くなった義母(重頼室)の供養を依頼したという。

天正14年(1586年)、新発田重家討伐戦に参加し新潟城を焼打ちする。豊臣秀吉の聚楽第新築のときには祝賀の使者を務めた。このとき、従五位下但馬守に任じられるとともに、景勝の命により苗字を大国と改めた。以後、頻繁に上洛し、木戸元斎と共に連歌会に多く参加した。天正19年(1591年)には連歌師里村紹巴の催す連歌会に度々参加し、実頼は『米府侍組由緒』には「能書、連歌の上手」と評されている。

慶長3年(1598年)、上杉景勝の会津移封に付き従い、南山城代として2万1000石を与えられた。そして慶長5年(1600年)に景勝が徳川家康との戦に備えて会津に神指城を築城しようとしたとき、兄の兼続と共に普請奉行を務めて功を挙げている。同年の関ヶ原の戦い後、出羽高畠城7,000石の城代となったが、城には移らず上洛して伏見に滞留した。慶長9年(1604年)、実兄直江兼続と本多政重との養子縁組に反対し、政重を迎えるために上洛した使者(西山庄左エ門宗秀、飯田実相坊元貞)を伏見宿の旅宿に招き、長刀を振るって殺害し、高野山に逃れた。以後、高野山に隠遁していたが兼続の死後、密かに米沢北郊の中小松村に戻り元和8年(1622年)に死去。享年61。また一説には慶長10年(1605年)、実頼の家臣・樋浦与兵衛が実頼の供養を依頼していることから、この頃に死去したともいわれる。

実頼の死後、大国家は一時断絶するが、米沢藩2代藩主・上杉定勝の代に、弟樋口秀兼の子・光頼を養子に迎える形で再興された。娘の阿虎は実頼出奔後、兄の直江兼続が預かり、慶長14年(1609年)に兼続の養女として本多政重に嫁いだ。後に政重が上杉家を出奔して前田家に帰参すると、夫の居る加賀へ行き、同地で没した。この時、本庄長房(政重以前に兼続の養子であった)ら多くの者が、阿虎に従って加賀へと出奔した。阿虎の子達は早世、他家への養子などで政重の後は継がなかったが、加賀藩士の青地家にその血が受け継がれている。

なお王子製紙会長であった大國昌彦は大国家直系の末裔にあたる。

大国実頼 - Wikipedia

大国実頼 とは
樋口与七・大国実頼

NHK大河ドラマ『天地人』第43回「実頼追放」10/25

★★★

小泉孝太郎こいずみこうたろう、1978年7月10日 - )は、日本の俳優、タレント。イザワオフィス所属[1]。政治家・小泉純一郎元首相の長男。愛称は孝太郎、こうちゃん、こいちゃん、こたろうなど

神奈川県横須賀市生まれ。父は政治家・小泉純一郎元首相。祖父は政治家の小泉純也、曽祖父は政治家の小泉又次郎。)弟は小泉進次郎(純一郎の代議士引退により次期衆院選に立候補予定)。4歳(1982年)のときに両親が離婚。関東学院六浦高等学校卒業。日本大学第2部(夜間)経済学部経済学科中退。学生時代はとび職に憧れ[2]、アルバイトも経験した。

中学生時代は「かっこいい野球部員」として女子に人気があった[3]。進学後も甲子園を目指す高校球児だったが、3年生の地方大会のときに腰を痛め てベンチにも入れず応援する側に回った。チームは地方大会の1回戦で負けてしまい、本人も野球の道を断念した。

石原慎太郎などの石原家と小泉純一郎などの小泉家は、遠い親戚である[4](番組で石原良純が告白した。事実、法事で一緒になることもあった)。しかし、石原プロモーションの新人発掘オーディション「21世紀の裕次郎」に応募するも、身長が180cmに満たなかったため二次予選で落選。選ばれたのは徳重聡を初めとする長身の若者達であった。

父親が内閣総理大臣になり時の人になると、芸能人志望であった孝太郎を、その話題性から複数の芸能事務所が獲得に動き、イザワオフィスと契約。すぐにコマーシャル契約が決まる。

映画から2時間サスペンスドラマ、旅番組やコメディドラマまで多数で活躍しているが、自身がホストを務める『孝太郎が行く2』を除き、トーク番組やバラエティ番組にはあまり出演することがない。しかし、不定期に明石家さんまや島田紳助の番組や『ダウンタウンDX』には出演し、内閣総理大臣の家族としての普段の生活や父・純一郎の家庭での素顔など話しているが、政治活動にはほとんど意欲をみせておらず、実弟の進次郎が純一郎代議士引退に伴う後継として次期衆院選に出馬の意向を示している。

身長177cm、体重68kg、バスト93cm、ウエスト80cm、ヒップ99cm。所有資格は第四級アマチュア無線技士など。孝太郎の名は、元産経新聞記者で政治評論家の俵孝太郎から取った。後に小泉孝太郎は俵孝太郎とCMで共演している。

細川茂樹とは私生活でも仲が良い(正確には細川茂樹とはNHK大河ドラマ『義経』での共演で仲良くなり、私生活で食事する事が多い)。上地雄輔、東原亜希とは幼なじみ(正確には上地雄輔とは19歳の時に父親の選挙活動にて知り合った為、昔馴染みである。ちなみにこのとき、彼のあまりの仕事の飽きっぽさに孝太郎がキレたことがある(『ダウンタウンDX』より))。『はなまるマーケット』出演時の上地によれば、本当に仲良くなったのは上地が高校の頃だが、小さい頃スイミングスクールが一緒だったり、孝太郎の父の周りの人と上地の父が仲が良かったりしたという事である。当時は週5日一緒にいるくらい仲が良かったと話している。

また、上地は「あいつは人をイラつかせる天才」といわせるほど孝太郎にしょっちゅういたずらをするため、温厚でめったに怒らない孝太郎自身が何度もキレている。最近では『ハケンの品格』の撮影の合間に上地がいたずらで持ってきた電流が流れるおもちゃに引っかかり、怒りのあまり、そのおもちゃを叩きつけ、粉々にしてしまったほど。本人曰く「(上地)雄輔には(感情を)全部ぶつけてしまう」らしい(『メレンゲの気持ち』より)。

小泉孝太郎 -
Wikipedia


崖っぷちのエリー(7/9〜)平林正宗(小林孝太郎):週刊秘宝で人事部から念願の編集マンに。やがて絵里子とは仕事のパートナーになり好意を抱いていく

テレビ朝日系『コールセンターの恋人

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NHK大河ドラマ「天地人」第7回「母の願い」
NHK大河ドラマ「天地人」第6回「いざ出陣」24.4%
NHK大河ドラマ「天地人」第5回「信長は鬼か」24.2%
NHK大河ドラマ「天地人」第4回「年上の女」26.0%
NHK大河ドラマ「天地人」第3回「殿の初恋」24.7%
NHK大河ドラマ「天地人」第2回「泣き虫余六」23.5%
NHK大河ドラマ「天地人」第1回「5歳の家臣」視聴率24.7%

阿部寛「フェアレディZ」ゲット!問題は…
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大河ドラマ『天地人』で長澤まさみ演じる役設定が急遽変更
肥留間正明の芸能斜め斬り ベテラン俳優たちの底力に感動
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★★NHK大河ドラマ『天地人』・話題★★★



★★★2010年NHK大河ドラマ「龍馬伝」★★★

2008年NHK大河ドラマ『篤姫』

★★★

上杉景虎(玉山鉄二)
華姫相武紗季
初音長澤まさみ

仙桃院高島礼子
北高全祝(加藤武)
父・樋口忽右衛門
母・お藤田中美佐子

家臣・泉沢久秀(東幹久)

長澤まさみ Fカップ巨乳解禁!?

: 天地人 キャスト 大河ドラマ 天地人 NHK 天地人 天地人 配役 天地人 出演者



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2009年11月15日

天地人★淀殿(深田恭子)

噂の深層 NHK大河撮影現場も巻き込む深キョンのマイペースぶり

社会派ドラマの台頭目立つ結果に! 09年上半期ドラマ視聴率10傑
11年度NHK大河ドラマは三代将軍・家光の生母・江(ごう)の生涯を描いた『江〜姫たちの戦国〜』に

★★★

NHK大河ドラマ天地人」原作・火坂雅志、脚本・小松江里子

天地人

淀殿深田恭子

豊臣秀吉の側室。織田信長の姪にあたる。1589年には捨(鶴松)を生んで、喜んだ秀吉から淀城を賜り、以後「淀殿」と呼ばれるようになる。

1593年には拾(秀頼)を生む。秀吉死後は北政所を差し置き、秀頼の後見人として豊臣家の家政の実権を握った。「関ヶ原の戦い」後、江戸に武家政権を構築し始めた徳川家康と対立したが、「大坂冬の陣・夏の陣」で徳川勢に完敗。大坂城落城に際して秀頼とともに自害した。

大河ドラマ 天地人

深キョンの限界露出 きっかけはライバル・黒木メイサ
堀越日出夫の「私、テレビの味方です」 深田恭子 コスプレありきのドラマ制作は大正解!


淀殿(よどどの、永禄12年(1569年)?[1] - 慶長20年5月8日(1615年6月4日)[2]?)は、戦国時代(室町時代末期)から江戸時代初頭の女性で、豊臣秀吉(羽柴秀吉)の側室[3]。位階は従五位下とされるが、諸説あり。本名は 浅井 茶々(あざい ちゃちゃ)および 浅井 菊子(あざい きくこ)。

天正16年(1588年)頃、秀吉の側室となる。秀吉は茶々の母市に憧れていたという。しかし市は夫勝家とともに自害。このとき、城から脱出してきていた三姉妹を保護する。三姉妹の中では母の面影を一番よく受け継いでいた長女お茶々を、側室に迎えようとしていたという。

天正17年(1589年)、捨(鶴松)を生む。この懐妊を喜んだ秀吉から山城国淀城を賜り、以後「淀の方」と呼ばれるようになった[14]。鶴松は天正19年(1591年)に死亡するが、文禄2年(1593年)に拾(秀頼)を生み、秀吉の死後は秀頼の後見人として大蔵卿局・饗庭局らを重用して豊臣家の家政の実権を握った[15]。

なお、鶴松を産んだときに高野山・持明院へ父母の肖像画をおさめ、秀頼を産んだときに父母ら血縁の菩提を弔うために、養源院(養源院とは浅井長政の院号であり、開基は一族の成伯)を建立した。秀吉死後、高野山などの修復にも当たっている。


徳川家康との対立、大坂の役 [編集]
慶長5年(1600年)に五奉行の石田三成が五大老となった徳川家康に対して挙兵した関ヶ原の戦いに際しては表だって関与はしていないが、豊臣家の直轄領は大幅に削減される。

関ヶ原の戦いの後に江戸に武家政権を構築しはじめた家康と対立し、臣従を求める秀頼の上洛要求などを拒否する。慶長19年(1614年)と慶長20年(1615年)の大坂の役で徳川勢に完敗し、大坂城落城に際して秀頼や大野治長らと共に自害したとされる。

墓所は京都市東山区の養源院、大阪市北区の太融寺。戒名は大虞院英厳大禅定尼、大虞院花顔妙香、大広院殿英ーと伝わる。

しかし茶々の最期を目撃した者がおらず、また遺体も確認されなかったため、秀頼と同様に彼女にも逃亡・生存説がある。落ち延びた先として薩摩や上野が挙げられているが、真偽については未だにはっきりしていない。

淀殿 - Wikipedia

第27回「与六と与七」7/5
NHK大河ドラマ『天地人』第26回「関白を叱る」その220.3%
NHK大河ドラマ『天地人』第26回「関白を叱る」その120.3%

NHK大河ドラマ『天地人』第25回「天下人の誘惑」その220.7%
NHK大河ドラマ『天地人』第25回「天下人の誘惑」その120.7%
NHK大河ドラマ『天地人』第24回「戸惑いの上洛」22.0%
NHK大河ドラマ『天地人』第23回「愛の兜」22.0%
NHK大河ドラマ『天地人』第22回「真田幸村参上20.7%

大河ドラマ「天地人」から飛び出す女優は寡黙なこの人
「天地人」はこんなにヘンだ!(週刊朝日 2009年05月29日号配信
妻夫木、小栗ら“美少年武将”が続々登場!「天地人」コミックが携帯配信

来年の大河「天地人」は爆笑の連続か2008年11月30日(日)

★★★2010年NHK大河ドラマ「龍馬伝」★★★
広末涼子 大河ドラマで“福山龍馬”の初恋相手

2008年NHK大河ドラマ『篤姫』

★★★

NHK来春朝ドラ『ゲゲゲの女房』のヒロインに松下奈緒 好きな妖怪は「一反もめん」
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NHK大河ドラマ「天地人」◆真田幸村(城田優)

家康と2度戦った男・・真田幸村

関ヶ原の戦い家康率いる東軍に敗れた幸村は九度山に追放された。

しかし大坂の陣を前に豊臣家から呼ばれ、大坂城へ。

幸村は防御の弱い大坂城の南側に「真田丸」と呼ばれる出城を建設。そこに徳川勢をひきつけ撃退。家康を苦しめた。

現在も大阪市天王寺区にある三光神社には陣中指揮姿の幸村像がある。

真田幸村城田優):天才軍師。若い頃人質として上杉家へ。兼続に温かい待遇を受け感激し、兄と慕う。

NHK大河ドラマ『天地人』第22回「真田幸村参上」

真田信繁さなだのぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。永禄10年(1567年)とされる生年は没年の49歳から逆算されたもので、月日は不明。

武田信玄の家臣であった真田幸隆の孫。大坂の役で活躍。特に大坂夏の陣では、寡兵を持って徳川本陣まで攻め込み、徳川家康を後一歩のところまで追いつめたとされる。江戸期以降、講談や小説などで真田十勇士を従えて大敵徳川に挑む天才軍師真田幸村さなだゆきむら)として取り上げられ、広く一般に知られることになった

講談などの影響で「真田幸村(さなだゆきむら)」の名で広く知られているが、信繁直筆の書状を始め、信繁が生きていた同時代の史料で「幸村」の名が使われているものは存在しない。従って歴史上の人物の名としては「信繁」が正しい。講談などで語られる「幸村」の活躍に関しては後述する真田幸村の節を参照のこと。

「幸村」の初出は江戸時代の寛文12年(1672年)成立の軍記物語『難波戦記』にあり、その本が爆発的に売れたため、「幸村」とすることのほうが一般的となり、後には兄・信之の子孫である松代藩の史書にまで「幸村」が採用された。

新井白石著の藩翰譜に、幸村と記載されている。

「幸」は真田家(厳密には真田家の主家にあたる海野家)の通字であり、「村」については信繁の姉の村松や、信繁の子孫が仕えた伊達家当主の伊達綱村、徳川家を呪ったとされる妖刀村正に由来しているとする説などがある。

「幸村」という名は信繁の死後100年以内で広まっているため、真田昌幸の死後に昌幸の片諱を継承して実際に「幸村」と名乗ったのではないかとの推測もある。ただし、可能性としてありうるものの「幸村」という名が記された史料が見つかっておらず、現状では立証が不可能である。

夏の陣での死の二ヶ月前に「幸村」と改名したため、という説もあるが史料に残っていない。大阪冬の陣と大阪夏の陣の半ばの慶長20年2月に叔父にあてた手紙や、兄・姉にあてた手紙にも信繁の名がある。

真田信繁 - Wikipedia

. 家康が最も恐れた男 真田幸村 - Wikipedia
. 真田幸村の生涯
. 日本一の兵 真田幸村 / 真田氏の館 三代録
. 真田幸村(城田優) - @niftyテレビ番組表「天地人」特集

★★★

大河ドラマ「天地人」から飛び出す女優は寡黙なこの人

「天地人」はこんなにヘンだ!(週刊朝日 2009年05月29日号配信

広末涼子 大河ドラマで“福山龍馬”の初恋相手

NHK大河ドラマ天地人」原作・火坂雅志、脚本・小松江里子

天地人

妻夫木、小栗ら“美少年武将”が続々登場!「天地人」コミックが携帯配信
天地人」はこんなにヘンだ!(週刊朝日 2009年05月29日号配信

天才子役の加藤清史郎、「天地人」に再登場・・6/7

NHK大河ドラマ「天地人」第21回「三成の涙」21.0%

★★★2010年NHK大河ドラマ「龍馬伝」★★★
広末涼子 大河ドラマで“福山龍馬”の初恋相手

2008年NHK大河ドラマ『篤姫』

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千姫(川島海荷)

NHK大河ドラマ天地人」原作・火坂雅志、脚本・小松江里子

千姫川島海荷

千姫(せんひめ、慶長2年4月11日(1597年5月26日) - 寛文6年2月6日(1666年3月11日))は、安土桃山時代から江戸時代の女性で、豊臣秀頼・本多忠刻の正室である。父は徳川秀忠、母は正室の江。号は天樹院。

慶長2年(1597年)5月26日、秀忠と江の長女として、山城国伏見城内の徳川屋敷で産まれる。 慶長8年(1603年)に7歳で秀頼と結婚し、乳母の刑部卿局とともに大坂城に入る。秀頼とは従兄妹にあたるが、たいへん夫婦仲睦まじかったという。慶長20年(1615年)19歳の時、大坂夏の陣では、祖父である徳川家康の命により落城する大坂城から救出される。その後、秀頼と側室の間の娘奈阿姫が処刑されそうになった時に千姫は彼女を自らの養女にして命を助ける。

元和2年(1616年)、桑名藩主本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚。この時、津和野藩主坂崎直盛が輿入れの行列を襲って千姫を強奪する計画を立てていることが発覚し、直盛は自害(もしくは家臣により殺害)、坂崎氏は改易処分となった(千姫事件)。一説には大坂城落城の際、千姫を救出した者と千姫を結婚させるとの家康の言葉を受けた直盛が、顔に火傷を負いながらも千姫を救出したが、直盛の器量が悪いことから千姫が結婚を嫌がり、結局美男の本多忠刻と結婚することになったという。直盛の襲撃計画はこのことを恨んでのものとされ、長く信じられていたが、現在ではそもそも大坂城で直盛が千姫を救出した話自体が疑わしいとされている(実際には堀内氏久という豊臣方の武将に護衛されて直盛の陣まで届けられた後、直盛が秀忠の元へ送り届けた、というのが真相らしい。それに、千姫を与えるではなく、嫁ぎ先を探すのを頼まれたのが真実らしい)。

同年9月26日に桑名城に着いた。この時に10万石の化粧料を与えられたといわれる。翌年の元和3年(1617年)、本多家が播磨姫路に移封になった時には8月28日に桑名を発って姫路城に移って播磨姫君と呼ばれるようになる。夫・忠刻とも夫婦仲睦まじく、翌元和4年(1618年)には長女・勝姫、元和5年(1619年)には長男・幸千代が生まれるが、元和7年(1621年)に幸千代が3歳で没したのを始め、その後は流産を繰り返すなど子宝に恵まれず(これは秀頼の祟りだと言われた)、寛永3年(1626年)には夫・忠刻、姑・熊姫、実母・江が次々と没するなど不幸が続き、本多家を娘・勝姫と共に出て江戸城に入り、出家して天樹院と号す。出家後は娘と二人で竹橋の邸で暮らす。寛永5年(1628年)に勝姫は池田光政の元へ嫁ぎ、一人暮らしとなる。池田家に嫁いだ一人娘のことを心配し、「天樹院書状」を送っている。

寛永20年(1643年)、鎌倉の東慶寺の伽藍を再建する。正保元年(1644年)には迷信を避ける為に江戸城から移った3代将軍家光の側室・夏(後の順性院)とその後生まれた家光の次男・綱重と暮らすようになる。このことで大奥で大きな権力を持つようになったとされる。明暦3年(1657年)の明暦の大火で竹橋の邸が焼失した時には、紀州徳川家の屋敷に一時寄留する。寛文6年(1666年)、江戸で死去。享年70。


知恩院千姫の宝塔亡くなった夜祖父家康の母於大の方(おだい)の菩提寺である小石川伝通院(傳通院、でんづういん)に納められ導師知鑑(知恩院37世)により葬儀が行なわれた。墓所は傳通院と茨城県常総市の天樹院弘経寺にあり、また徳川家(松平家)が三河時代から帰依していた浄土宗の総本山である京都の知恩院(華頂山知恩教院大谷寺)に定例により分骨され宝塔に納められた。知鑑は後に位牌や遺物を祭るため伊勢に「寂照寺」を開いた。戒名天樹院殿栄譽源法松山禅定尼。

錦絵や浪曲でよく語られる、御殿から男を誘い込んで弄び、それらの男を全員殺したという「吉田御殿の話」が伝説として生まれている。

人物 [編集]
穏和な性格の持ち主と伝えられるが、実際には豊臣秀頼と側室の間に生まれた娘・奈阿姫が処刑される所を体を張った必死の助命嘆願を行い、その結果、奈阿姫は助けられたとされる。奈阿姫は後に「縁切り寺」として有名な東慶寺の住職となる。

千姫は祖母・市の聡明さと美貌を受け継いだ、たいへん美しい姫君であったという。また、初めの夫・秀頼とも夫婦仲睦まじかった。千姫が16歳のとき、秀頼が女性の黒髪を揃える儀式「鬢削」を千姫にしていたのを侍女が目撃している。

千姫が亡くなった際、娘・勝姫の子である奈阿姫(上記の秀頼の娘とは別人)は祖母の菩提を弔うために「浄土三部経(全4巻)」を書き写した。奈阿姫の書いた「浄土三部経(紺紙金泥阿弥陀経)」は現在、茨城県常総市指定文化財となっている。

千姫は祖父・家康や父・秀忠からたいへん可愛がられたという。また、弟家光とも姉弟仲は良好だったらしい

千姫 - Wikipedia

川島海荷
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NHK大河ドラマ天地人「豊臣秀頼」

NHK大河ドラマ天地人」原作・火坂雅志、脚本・小松江里子

豊臣秀頼(とよとみひでより/とよとみのひでより)/羽柴秀頼(はしばひでより)(文禄元年8月3日(1592年9月8日) - 慶長20年5月8日(1615年6月4日)は、日本の安土桃山時代から江戸時代前期にかけて生きた大名。天下人。

幼名は拾丸(ひろいまる)。父は豊臣秀吉、母は側室の茶々(淀殿)。子は側室和期の方(名は伊茶。渡辺氏)との間に国松と、小石の方(おいわのかた。成田氏)との間に天秀尼(彼女の生母については異説がある)。位階は正二位、官職は右大臣。

乳母は宮内卿局・右京大夫局(一説に両者は同一人物とも)・正栄尼が伝わる。また、母淀殿の乳母である大蔵卿局も養育係を務めた。

誕生から秀吉の死まで [編集]
文禄2年(1593年)、秀吉57歳のときの子で、大坂城で誕生した。これまで秀吉のほかの大勢の側室に子ができなかったことから、当時から秀吉の実子ではないのではないかとの噂が絶えなかったという。

誕生のときにはすでに、従兄の秀次が秀吉の養嗣子として関白を譲られ、秀吉の後継者となっていた。秀吉は、当初は秀次と秀頼の関係を調整するため、秀頼誕生の2ヶ月後の文禄2年10月には、秀次の娘(槿姫とも呼ばれるが不詳)と婚約し、秀吉→秀次→秀頼という政権継承が模索されたが、秀吉は、文禄4年(1595年)7月には秀次の関白職を奪い、ついで自刃させた。秀次の子女・妻妾も皆殺しとなり、秀頼の秀吉の継嗣としての地位が確定した。秀吉はこのとき秀頼に忠誠を誓約する起請文を作成し、多数の大名たちに血判署名させている。伏見城が建設され秀吉が居城を移すと秀頼もこれに従って以後ここに住んだ。

慶長元年(1596年)9月、禁裏で元服して諱を秀頼と称す。秀吉は、それまで個人的な独裁体制の色彩が強かった豊臣政権に、御掟・御掟追加などの基本法や五大老・五奉行などの職制を導入して秀頼を補佐する体制を整えた。慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると、秀頼は家督を継ぎ、秀吉の遺命により大坂城に移った。

秀吉死後には五大老の徳川家康が重臣合議制の原則を逸脱して影響力を強め、政権内の対立も深まっていった。五大老の前田利家の死去、七将襲撃事件にともなう五奉行・石田三成の失脚などで、政局の主導権は家康の手に握られてゆく。

関ヶ原合戦 [編集]
慶長5年(1600年)に三成らが家康に対して挙兵する関ヶ原の戦いが勃発すると、秀頼は西軍の総大将として擁立された五大老のひとり毛利輝元の庇護下におかれた。関ヶ原では秀頼の親衛隊である七手組の一部が西軍に参加したが、東西両軍とも「秀頼公のため」の戦いを大義としており、戦後に秀頼は家康を忠義者として労った。だが、家康はその戦後処理において羽柴宗家の所領(いわゆる太閤蔵入地)を勝手に分配し、日本全国に分散して配置されていた約220万石のうち、諸大名に管理を任せていた分を奪われて、秀頼は摂津・河内・和泉の直轄地のみを知行する約65万石の一大名の立場に転落した。ただ、一部の蔵入地からは依然として収入があった形跡がある。

慶長8年(1603年)2月、家康は、鎌倉幕府・室町幕府の最高権力者の地位を象徴する征夷大将軍の官職を獲得し、諸大名を動員して江戸城の普請を行わせ、独自の政権構築を始めた。秀頼はしだいに天下人の座からはずされてゆくことになるが、その後も、摂関家の家格に沿った順調な位階・官職の昇進をとげ、毎年の年頭には公家衆が大坂城に大挙下向して秀頼に参賀しており、また家臣に対して独自の官位叙任権を行使するなど、朝廷からは秀吉生前と同様の礼遇を受けていた。秀頼はなお徳川家と一定の対等性を維持しており、この時期を日本にふたつの政権が併存した「二重公儀体制」と評価する説もある。同年7月、秀頼は、生前の秀吉のはからいで婚約していた徳川秀忠の娘千姫(母は淀殿の妹・お江)と結婚した。慶長10年(1605年)4月、秀頼が右大臣に昇進した機会に、家康は秀頼の上洛と京都での会見を希望するが、淀殿の反対で実現しなかった。このときは家康が断念し、六男松平忠輝を大坂城に派遣して秀頼に面会させている。慶長16年(1611年)3月、家康のはからいで後陽成天皇が後水尾天皇に譲位すると、ついに秀頼は「千姫の祖父に挨拶する」という名目で、加藤清正・浅野幸長に守られつつ上洛し、京都二条城で家康との会見を行った。この会見の意義については、秀頼の家康への臣従を意味すると見る説と、引き続き秀頼が家康との対等性を維持したと見る説とがあり、史家の間でも見解が分かれている
人物 [編集]
秀頼は公家風の教育を受けていたと言われ、伝存する筆跡は高い評価を受けている。淀殿の影響下から脱しきれなかったことなどから小柄で文弱なお坊ちゃまの少年というイメージをいだきがちであるが、実際は身長6尺5寸(約197cm)・体重43貫(約161kg)の並外れた巨漢であったと伝わる(イメージ的には、大相撲力士・貴ノ浪とほぼ同等の体格である)。家康が二条城で秀頼と会見した時に、秀頼の巨体からかもし出されるカリスマ性に恐怖し、豊臣家打倒を決意したと記録するものもあるほど、武将としての威厳はあったとされている。この点は近年のドラマ、舞台などでは忠実に再現され、舞台『SANADA』、大河ドラマ『葵徳川三代』などにおいて成人後の秀頼は身長の面で大柄な役者が演じている。特に後者においては大鎧を着用した姿も描かれ、大柄であったことが強調されている。体重の面を「忠実に」再現した役者としては『春日局』での渡辺徹がその代表である。

このため身長が5尺(約152cm)もないと言われ、平均身長が現在よりかなり低かった戦国時代においても「小柄な武将」として有名だった秀吉の実子かどうかが疑われる一因になっている。ただし、祖父浅井長政や祖母お市が長身だったことを考えると、秀頼が大柄でもなんら不思議はない。

顔には、天然痘の後遺症である痘痕が残っていたともいう。

妻である千姫との仲はよかったらしい。しかし、ふたりの間に子供はできず、側室の子を千姫の養子とした。

蒲鉾が大の好物であったという。

江戸時代に作られた秀頼の伝記『豊内記』では「秀頼公は太閤の遺言に従い、天下の実権を征夷大将軍家康公に執らせて、大坂城に蟄居していた。礼を重んじて義を行い、聖賢の風を慕い凶邪の念を去り、私欲を哀れんで民を哀れみ、国家が豊かになることのみ朝夕念じておられた。故にこの君が政を執っておられたなら、日本に二度延喜・天智の治が現れただろう。人々は大干ばつに雨をもたらす雲を望むが如く、秀頼の政治を待ち望んでいただろう」と描かれている。

また日本研究家レオン・パジェスは著書『日本切支丹宗門史』のなかで「秀頼が失敗したのは彼の頑固な迷信のためで遺憾とするに当たらない」と評している。




生存説 [編集]
秀頼たちが絶命する瞬間を目撃した者がおらず、死体も発見されなかったことから、『日本西教史』(ジャン・クラッセ著)には落城時に死亡とも母・妻をともなって辺境の大名領地に落ち延びたともあり、平戸にいたリチャード・コックスの日記には、城内にて焼死とも薩摩・琉球に逃げたともあり、また、大坂落城後に上方で「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」という童歌がはやったことなどから、秀頼は死亡しておらず秀吉恩顧の武将により密かに救出され落ち延びたとする脱出・生存の風説が流れたことがうかがえる。しかし真相は定かではない。

誰が秀頼をかくまったについては、薩摩島津家や肥後加藤家など諸説がある。

熊本城には「昭君の間」という部屋があり、ここが秀頼の居室であったとの伝承が残されている。
鹿児島県鹿児島市谷山に200人の落人があったが、そのなかに秀頼がいたと噂されたといい『左衞門佐君傳記稿』にはこの地に秀頼公の墳あると記す。
鹿児島県鹿児島市上福元町木之下に「伝秀頼公由緒地」の碑のある石塔の墓がある。
大分県日出町長流寺に、秀頼の息子国松の墓と伝える五輪塔の墓がある。
天草四郎の父親との説もある。天草四郎に豊臣秀綱という名があると鹿児島で伝えられている。
能登国輪島の天領庄屋である時国家の養子となったとの伝承が残されている。

豊臣秀頼 - Wikipedia
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2009年11月07日

『天地人』徳川秀忠(中川晃教)

NHK大河ドラマ『天地人』第45回「大阪の陣へ」

この人物のオモテとウラ 「男」も「タイミング」もバッチリ
松田龍平、肋骨折る 母・美由紀トークショーで…

妻夫木兼続から福山龍馬へ大河バトン
加藤清史郎は黒柳徹子に、大河ドラマ「天地人」でのアノ名ぜりふをリクエストされ、披露する

NHK大河ドラマ天地人」原作・火坂雅志、脚本・小松江里子

徳川秀忠
(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代の武将。江戸幕府第2代征夷大将軍。
徳川家康の三男として、遠江国浜松に生まれ、乳母大姥局によって養育される。母は側室の西郷局、実家の西郷氏は、九州の菊池氏一族で、室町初期には守護代をつとめたこともある三河の有力な国人であった。

同母弟に家康の四男松平忠吉がいる。長兄信康は秀忠の生まれた年に死亡、庶兄の秀康は豊臣秀吉の養子に出され、のちに結城氏を継いだので、母親が三河の名家である秀忠が実質的な世子として処遇されることになった。秀吉の推挙により14歳で中納言に任官し、秀吉から羽柴の名字を与えられ「羽柴江戸中納言」と称した。

天正18年(1590年)、秀吉の養女で織田信雄の娘・小姫(春昌院)と祝言を挙げたが、秀吉と信雄が仲違いして信雄が除封されたことにより離縁となる。文禄4年(1595年)には信長の姪で同じく秀吉の養女江(父は浅井長政、母は織田信長の妹市)と再婚。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対して、中山道を進む別働隊を率いる役割を与えられ、9月10日に美濃の赤坂宿に到着する予定(福島家文書に「中納言、さだめて十日時分には其地まで参るべし」)だったが、信濃国上田城攻めで、真田昌幸の激しい抵抗に時間を奪われて9月15日(新暦10月21日)の関ヶ原の戦いには参加できなかった[1]。近年の研究では、このことで軍事面に於いてその無能振りを全国に示した秀忠及び自分の死後の徳川家の将来を悲観した家康が、もともとは秀吉の遺言に従い、徳川・豊臣両家共存の意向だったのを取り止めて、後顧の憂いを絶つべく豊臣家廃絶の道を選んだのではないかとする考えが示されている。[要出典]

そのように軍事面での才能には疑問が持たれる秀忠だが、それでも後継者となったのは家康が秀忠を「守成の時代」の君主に相応しいと考えていたからだと言われている[2](家康は唐の太宗の治世について記した『貞観政要』を読んでおり、当然その中の「守成は創業より難し」という一文も読んでいたと思われる)。律儀に父の路線を守り、出来て間もない江戸幕府の基盤を強固にすることを期待されたのであり、結果として秀忠もそれによく応えたと言えるだろう。ただ、秀忠自身は武将として汚名が付いたことを気にしていたらしく、大坂冬の陣では家康に対して豊臣方への強攻策を主張しており、この戦いに勝利することで汚名を返上しようとしていたのではないか、とする説もある。

征夷大将軍 [編集]
慶長8年(1603年)に征夷大将軍に就いて幕府を開いた家康は、徳川氏による将軍職世襲を確実にするため、慶長10年(1605年)にわずか2年で秀忠に将軍職を譲った。秀忠が将軍職に就任するための上洛時、関東・東北・甲信の諸大名をあわせ10万人規模の軍を率いた。秀忠は江戸城に居住し、駿府城に住む大御所家康との間の二元政治体制になるが、本多正信らの補佐により家康の意を汲んだ政治を執った。大坂の役にも家康とともに参戦して総大将となり、慶長20年(1615年)の戦で、豊臣家重臣・大野治房によって本陣を脅かされた。結局、豊臣家は滅亡し、豊臣秀頼に嫁がせていた娘の千姫は助け出された。その後、家康とともに武家諸法度・禁中並公家諸法度などの制定につとめた。

なお将軍襲職の際、源氏長者、奨学院別当は譲られなかったとする説がある(岡野友彦『源氏と日本国王』)。『徳川実紀』にはなったと書いてあるが、これは没後さかのぼってなったのだというのである。これが事実なら、徳川将軍で唯一源氏長者にならなかった将軍ということになる。

元和2年(1616年)に家康が死去したのちは、将軍親政を開始し酒井忠世、土井利勝らを老中として幕府の中枢を自身の側近で固め、自らリーダーシップを発揮する。大名統制を強化して福島正則ら多くの外様大名を改易し、3人の弟を尾張・紀伊・水戸に配置し、自身の子忠長に駿河・遠江・甲斐を与えた。一方で、弟の松平忠輝・娘婿の松平忠直や家康の謀臣・本多正純を改易・配流にしている。また朝廷に対しても厳しい引き締めを行う一方で、娘の一人和子を後水尾天皇に入内させた。また鎖国政策の布石として、外国船寄港を平戸・長崎に限定させている。

隠居 [編集]
元和9年(1623年)に将軍職を嫡男家光に譲る。父家康に倣って、引退後も実権は手放さず、大御所として二元政治を行った。当初、駿府に引退した家康に倣い、自身は小田原城で政務を執ることを考えていたようだが、結局は江戸城西の丸(現在の皇居)に移った。晩年の寛永6年(1629年)の紫衣事件では朝廷・寺社統制の徹底を示した。寛永8年(1631年)には忠長の領地を召し上げて蟄居を命じるが、このころから体調を崩し、翌寛永9年(1632年)年初めに亡くなった。

家光に対して『徳川実紀』では、「当家夜をありつの日浅く、今まで創建せし綱紀政令、いまだ全備せしにあらざれば、近年のうちにそれぞれ改修せんと思ひしが、今は不幸にして其の事も遂げずなりぬ、我なからむ後に、御身いささか憚る所なく改正し給へば、これぞ我が志を継ぐとも申すべき孝道なれ」との遺言を残している。

徳川家綱(第4代将軍)、徳川綱重、徳川綱吉(第5代将軍)は孫。徳川家宣(第6代将軍)・松平清武は曾孫。徳川家継(第7代将軍)は玄孫にあたる。徳川秀忠 - Wikipedia

中川晃教
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中川 晃教(なかがわ あきのり、1982年11月5日 - )は、日本の男性シンガーソングライター。俳優。

宮城県仙台市出身。小学生時代から作曲を始め、地元の学校に通いながら音楽活動を続ける。東北高等学校を経て、東北文化学園大学入学。

地元のテレビ局でとり上げられ、徳間ジャパンのプロデューサーの目にとまり、2001年「I WILL GET YOUR KISS」でデビュー。TBS系ドラマ「マリア」の主題歌に起用され20万枚を超えるヒットとなる。

2001年、2ndシングル「I say good-bye」(テレビ朝日系ドラマ「最後の家族」主題歌)。

2002年リリースの3rdシングル「White Shiny Street」のビデオクリップには、女優の藤原紀香が出演している。

2002年、帝国劇場ミュージカル「モーツァルト!」主演以来ミュージカル俳優としても活躍中。その初演「モーツァルト!」の主演で、初舞台で数々の賞を受賞するという前例のない快挙を成し遂げた(読売演劇大賞/杉村春子賞/文化庁芸術祭賞/月刊誌「ミュージカル」男優部門第一位など)。

血液型はB型。宮城県が提唱するみやぎ夢大使の一人。

中川晃教 - Wikipedia

★★★

福山雅治が叩かれない理由 大きく分けて二つ
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2009年09月28日

NHK大河ドラマ『天地人』福島正則(石原良純)

NHK大河ドラマ天地人

福島正則石原良純):母が秀吉の叔母であったことから幼少より秀吉に仕えた武闘派の武将。加藤清正の盟友で、北政所を強く尊崇していた。会津の上杉討伐に従軍するが、上方で三成が挙兵した知らせを受けて東軍として参戦。「関ヶ原の戦い」後は安芸(あき)広島と備後(びんご)鞆(とも)49万余石の大封(たいほう)を得、広島城の城主に栄転する。

家康・秀頼の会見を取り持つなど、江戸幕府への忠勤に励む一方、豊臣家を主筋(しゅすじ)に立てることも忘れなかった。
大河ドラマ 天地人

福島正則(ふくしままさのり)は安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名である。

秀吉の子飼い

永禄4年(1561年)、福島正信の長男として現在の愛知県海部郡美和町で生まれる。

母が豊臣秀吉の叔母だったため、その縁から幼少より小姓として秀吉に仕え、天正6年(1578年)に播磨三木城の攻撃で初陣を飾る。

天正10年(1582年)の山崎の戦いの軍功で500石を知行し、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いのときは一番槍・一番首として敵将・拝郷家嘉を討ち取るという大功を立てて賞され、賤ヶ岳の七本槍の中でも突出して5000石を与えられた(他の6人は3000石)。その後も秀吉の主要な合戦の多くに参戦し、天正15年(1587年)の九州征伐ののち、伊予国今治11万石の大名に封ぜられる。

文禄元年(1592年)からの文禄の役では五番隊の主将として戸田勝隆、長宗我部元親、蜂須賀家政、生駒親正、来島通総などを率いて京幾道の攻略にあった。また年末には京幾道竹山の守備についた。翌年、講和交渉の進展により南部布陣が決まると巨済島の松真浦城や場門浦城の守備を担当し、文禄3年(1594年)10月に朝鮮水軍を率いる李舜臣が場門浦を攻撃した時(場門浦海戦)には正則自ら海水に下りて指揮を行い、敵船を焼き討ちするなどの反撃でこれを撃退した(征韓録)(参謀本部「朝鮮役」より)。

文禄4年(1595年)に尾張国清洲に24万石の所領を与えられた。

関ヶ原の戦い

しかし、武勇に優れた正則は文治派の石田三成らと朝鮮出兵を契機としてその仲が一気に険悪になり、慶長4年(1599年)の前田利家の死後、朋友の加藤清正と共に三成を襲撃するなどの事件も起こしている。この時は徳川家康に慰留され襲撃を翻意したが、その経緯から家康の昵懇大名の一人となる。

また、姉の子で正則の養子になっていた正之と家康の養女・満天姫との婚姻を実現させた。これは諸大名の私婚を禁じた秀吉の遺命に反するものだったが、正則はこの婚姻こそが豊臣・徳川の将来の和平に繋がると確信していた。

慶長5年(1600年)の会津の上杉討伐には6000人を率いて従軍。その途中、上方で三成が挙兵した報を受けての小山評定では、家康の意を受けた黒田長政にあらかじめ懐柔されていた正則が三成挙兵に動揺する諸大名の機先を制して、いち早く家康の味方につくことを誓約し、反転して西上する方針が決定する。清洲から美濃方面に進軍し、西軍の織田秀信が守る岐阜城攻めでは池田輝政と先鋒を争い、黒田長政らと共同で城を陥落させる。

関ヶ原の戦い本戦では当初石田勢との対陣を希望したが結局叶わず、更にこれまで幾多の戦いで先陣を務めたにも関わらず、井伊・松平らに抜け駆けされ激怒する。彼らの挑発に乗せられる形で戦端が開かれ、宇喜多勢1万7000と激闘を繰り広げた。宇喜多秀家隊の前衛8000を率いた明石全登は音に聞こえた勇将で、福島勢は一時500メートルあまりも押しまくられ、壊滅寸前に追い込まれる。血相を変えた正則自身が叱咤激励し、さらに東軍各部隊が次々と援軍に現れ、宇喜多隊を3方向から猛烈に攻め立てる。そのため東軍の宇喜多隊攻撃部隊は、膨大な数の被害を出し続けるものの、なんとか宇喜多隊の進撃を防ぎきることに成功する。

やがて小早川秀秋の背信を機に西軍の戦線は次々に崩壊した。宇喜多隊は、開戦時からずっと全力で戦っていたため疲労が頂点に達し、6万以上の東軍部隊の集中攻撃を持ち堪えられなくなり、壊滅した。その結果福島正則隊らは宇喜多勢を打ち破ることに成功した。こうして東軍の勝利に貢献第一と目された正則は西軍総大将・毛利輝元からの大坂城接収にも奔走し、戦後安芸広島と備後鞆49万8200石の大封を得た。

江戸時代

慶長6年(1601年)3月に芸備に入封した正則は早くも領内を巡検するとともに、検地で石高の再算出を行った。家臣への知行割も事実上の給米制とし検地の結果を農民に公開した上で実収に伴った年貢を徴収して負担を少なくするといった善政を布き、意外な地方巧者ぶりを発揮している。また領内の寺社の保護にも熱心であり、慶長7年(1602年)には厳島神社の平家納経を修復させたことが知られている。この治世で、除封直前の石高は51万5800石に達している。

慶長9年(1604年)からの江戸幕府による諸城修築の動員に参加して忠勤に励む一方、豊臣家を主筋に立てることも忘れなかった。慶長16年(1611年)3月に家康が秀頼に対し二条城での会見を迫った時には、いまなお豊臣家が主筋と自負して強硬に反対した淀殿を加藤清正や浅野幸長とともに説得し、秀頼の上洛を実現させた(正則自身は病と称して会見に同席せず、枚方から京の街道筋を1万の軍勢で固めて変事に備えた)。

この会見直後に清正や浅野長政・幸長父子、池田輝政といった朋友の豊臣恩顧大名が相次いで死去し、正則自身も慶長17年(1612年)に病を理由に隠居を願い出る。しかしそれも許されずに飼い殺しの状態に置かれた正則は大坂の陣では秀頼に加勢を求められても拒絶し、大坂の蔵屋敷にあった蔵米8万石の接収を黙認するに留まった。これを知った幕府には東軍への従軍も許されず、江戸留守居役を命じられた。豊臣氏の滅亡を機に羽柴姓も捨てた正則は、ひたすら幕府への恭順を余儀なくされる。

改易と晩年

家康死後まもなくの元和5年(1619年)、台風による水害で破壊された広島城を無断でほんの少しだけ修理したことが武家諸法度違反に問われる。正則は2ヶ月も前から届けを出していたが幕府からは正式な許可が出ていなかった。しかも修繕したのは雨漏りする部分をやむをえず直しただけという。江戸参勤中の正則が謝罪し、修繕した部分を破却するという条件で一旦は沙汰止みになったものの破却が不十分であることを咎められ、安芸・備後50万石を没収、信濃国川中島四郡中の高井郡高井野藩、越後国魚沼郡、4万5000石に減封される。

これは過激な武将である正則の統制策とする理解が一般的だが、家康死後の二元政治廃止に伴う本多正純と土井利勝らの幕府内権力争いにまきこまれたという説も提示されている。正純が受け取った届出を利勝らが正純の信頼を失墜させるためわざと放置していたと言うものである。最終的に改易を強行したのは2代将軍・秀忠だが、利勝や正純ら幕府首脳はむしろ正則の改易が諸大名の反抗に繋がることを恐れ、処分に及び腰であった。

元和6年(1620年)に嫡男・忠勝が早世したため、正則は2万5000石を幕府に返上した。寛永元年(1624年)、高井野で死去。享年64。

この際、家臣が正則の遺体を幕府の使者が到着する前に火葬したため(一説には正則が屈辱に耐えかね切腹したのを咎められるのを恐れこれを隠蔽するために急いで火葬にしたとも言われる)、福島家は残りの2万石も没収され、後を継いだ正則の子・正利は3000石の旗本に身分を落とすこととなった。

官職位階履歴

天正13年7月16日(1585年8月11日)、平正則として従五位下左衛門大夫に叙任。
慶長2年7月26日(1597年9月7日)、侍従に任官。羽柴の苗字も同時に拝領。
慶長7年3月7日(1602年4月28日)、豊臣正則として左近衛権少将に転任(時に、従四位下に昇叙か)。
元和3年6月21日(1617年7月23日)、豊臣正則として従三位に昇叙し、参議に転任。 同年11月2日、参議辞職。
なお「左衛門大夫」という官職はないので、恐らく五位の左衛門尉という意味だろうとされる(『福島正則』中公新書)。

人物・逸話

歴史小説などでは武勇に長けるが智謀に乏しい猪武者として描かれている。幼い頃に父親の桶屋家業を継ぐために修行していたとき、大人と喧嘩をして鑿で相手を殺害したという逸話もあるほどで、これらが一因しているといってもよい。
関ヶ原の戦いでは第一の武功を賞されたが、関ヶ原では度々それを投げ打つことも辞さない言動をしている。戦いに関連した次のような逸話・研究がある。
岐阜城を攻め落とした際には「某(それがし)の武功に代えても」の一言で城主・織田秀信の助命を嘆願した。その直後、家臣が徳川家の足軽に侮辱されて自害し、その上司である旗本・伊奈図書の切腹を正則が要求したときも「聞き容れられなければ城地を立ち去るのみである」と啖呵を切っている。
関ヶ原後に三成が捕えられた際に、三成の「脱出して再起を図ろうとする事こそ大将の心がけだ」との発言を聞き、「至極もっともなり、(戦場から脱出する事は)少しも恥辱にあらず」と賞賛したという。
武断派の印象が強いが、慶長6年(1601年)の検地で知行高498,000石だったのを元和5年(1619年)に515,000石まで増加させており、領主として行政面でも結果を残している。
自らはキリシタンではなかったが、清洲城主当時から一貫してキリシタン保護政策を堅持していた。宗教に対しては寛容な政策をとっていたとされる。
泥酔して家臣に切腹を命じ、翌朝になって間違いに気付いたがもはや取り返しがつかず、その家臣の首に泣いて詫びたという逸話もある。
酒席で、黒田家家臣母里友信に酒を無理矢理一気飲みさせ家宝の日本号をとられた話もある。
幕府の命で名古屋城の手伝普請に従事している際、「江戸や駿府はまだしも、ここは妾の子の城ではないか。それにまでコキ使われたのでは堪らない」とこぼし、清正に「お前は(家康の)婿殿だろう、我々のためにこのことを直訴してくれ」と迫った。清正が笑いながら「滅多なことを言うな。築城がそんなに嫌なら国元に帰って謀反の支度をしろ。それが無理なら命令どおりに工期を急げ」とたしなめ、その場は収まったという。
元和元年(1615年)大坂城の落城後、妙心寺の石川貞清のもとを訪れ面会した正則は、貞清から妙心寺内の土地の一部を譲り受けて海福院を建立し、死者の冥福を祈った。貞清は関ヶ原の戦いで西軍に与して戦後は茶人・商人となっていた人物で、その妻について石田三成の娘、大谷吉継の妹、真田信繁(幸村)の娘などの諸説がある。
家康が重病で死の床に就くと正則は駿府を訪れて見舞ったが、家康は「一度安芸に帰られるがよい。将軍家(徳川秀忠)に不服があれば、遠慮せず、兵を挙げられるが良い」と冷たく言い放った。御前を退出した正則は「今日までご奉公に努めて来たにも関わらず、あのような申されようは情けない限りだ」と嘆き、人目も憚らず泣いた。それを聞いた家康は「その一言を吐き出させるために、あのように言ったのだ」と安心したという。
かなりの恐妻家であったらしく、ある時は女性問題で嫉妬に狂った夫人(昌泉院)に薙刀で斬りつけられて、戦場では決して後ろを見せずと自負した彼もこれには逃げ出したと言う逸話が残っている

福島正則 - Wikipedia

福島正則(石原良純) - @niftyテレビ番組表「天地人」特集

福島正則の列伝
福島正則 高井野
福島正則の紹介
福島正則
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2009年08月09日

NHK大河ドラマ「天地人」★小早川秀秋(上地雄輔)

NHK大河ドラマ天地人

小早川秀秋:(上地雄輔)木下家定(豊臣秀吉の正室・高台院の兄)の5男として生まれる。叔父である秀吉の養子になり羽柴秀俊と名乗る。その後、秀吉の命で小早川隆景の養子として小早川家に入り秀秋と改名する。

「関ヶ原の戦い」では西軍に参戦するが、合戦途中に東軍への加担を決意、西軍を攻撃、東軍大勝の立役者となった。この戦功により、備前・美作の55万石を与えられ備前岡山城主となる。

大河ドラマ 天地人

小早川秀秋 - Wikipedia


8/4・・NHKスタジオパークからこんにちは」はNHK大河ドラマ天地人』に小早川秀秋を演じる上地雄輔さんが登場・・いつになくスダジオ見学者が多いNHKスタジオ

上地雄輔さんは1979年横須賀生まれ、小学校では成績優秀、小学校6年生で身長が170センチ以上あったという野球のエリート少年、日本代表にも。

高校は38校からの推薦を受け、入学したのは名門・横浜高校

上地雄輔さん、甲子園を目指した高校時代は松坂大輔投手の女房役

松坂大輔投手とは今でも仲良く、相談を受けることもあるそう。

上地雄輔、昨年2008年は おばかキャラで人気爆発、羞恥心として紅白歌合戦にも出場、瞬間最高視聴率40%を!!

羞恥心、2009年1月2日で歌手活動を終了

上地雄輔さん、大河ドラマ「天地人」で時代劇初挑戦で8/9、第32回から登場。まずは13歳という設定で。(小早川秀秋・・豊臣秀吉の甥で養子となり、19歳のとき関が原の戦いで、石田三成率いる西軍から徳川家康率いる東軍に寝返り、のちに裏切り者の汚名を着せられることになり、21歳の若さで亡くなるという悲運の武将)

大河ドラマ出演の話が来たとき上地雄輔さんがまず思ったことは・・「かつらをかぶるのかぁ・・」・・20冊の本(8割は漫画)を読んで歴史の勉強を・・。「台本を読んでもさっぱりわからん!!」という状態。所作も大変だったけど、楽しかったと。

. 小早川秀秋(上地雄輔) - @niftyテレビ番組表「天地人」特集


上地雄輔さんの「愛されキャラ」の秘密は・・自由人(上下関係を関係なく人と人のつきあいをする)

上地雄輔流上下関係は、子供のときから。
上地雄輔さんのブログは居酒屋。コメントはすべて読むそう。毎月1日は、その月の誕生日の方へのお祝いコメントを始めてから2年間続けています。

神児遊助

上地雄輔さん19歳でスカウトされデビュー10年・・「成るようにする!!」・・アルバイトも随分したそう。上地雄輔さんいわく「アルバイトは楽しかったなーー」、「全く落ち込むことはなかったです・・なんとかなるだろう・・」と。今の状態も「こんなになっちゃった・・これからの予定もたててないけど・・できることはなんでもやります、ムリはしないけど、無茶はします。周りの人ができると言っても、自分に1パーセントでも自信はなかったら絶対しない!!」

上地雄輔さんのリラックス法は・・50以上あるというグローブの収集。グローブの香りでリラックス。

上地雄輔さん、好きな女性のタイプは・・「タイプはないの・・料理がうまい人・・

上地雄輔さん、やってみたいヘアスタイルは・・「ないなーー。いつも思いつきです」

上地雄輔さん、休みが3日とれたら??・・「4日とれるようにお願いします・・友達とバーベキュー・・」

上地雄輔

★★★

NHKスタジオパークからこんにちは★★

スタジオパークからこんにちは★比嘉愛未
スタジオパークからこんにちは★加藤あい
NHK「スタジオパークからこんにちは」は現在子育て奮闘中の渡辺満里奈さん
NHKスタジオパークからこんにちは・・RIKACOさん
NHKスタジオパークからこんにちは・・現役東大生アイドル・八田亜矢子さん
NHKスタジオパークからこんにちは・・『つばさ』から手塚理美さん
オレ様社長・真瀬(宅間孝行)さんが「スタジオパークからこんにちは」
NHK「スタジオパークからこんにちは」54歳の郷ひろみさん登場
吹石一恵さん、スタジオパークからこんにちはに登場。(5/29)
話題の経済評論家・勝間和代さん、スタジオパークからこんにちは
押切もえ「しゃべらナイト」にさよなら
山口翔梧さんがNHK「土曜スタジオパーク」に登場
のぞみ役三倉佳奈さんがNHK「スタジオパークからこんにちは」
吉田栄作★スタジオパークからこんにちは

木村多江★スタジオパークからこんにちは
朝ドラ『だんだん』から石田ひかりさん NHKスタジオパークに登場

松下由樹★スタジオパークからこんにちは
NHK朝の連続ドラマ・瞳(榮倉奈々)ちゃんがスタジオパークからこんにちは
勇蔵さん役、安田顕さんがNHKスタジオパークに登場
木の実ナナさんがNHKスタジオパークに登場
ウメさん役菅井きんさんがNHKスタジオパークに登場
NHK「スタジオパークからこんにちは」に飯島直子さん登場、美しさを保つライフスタイルとは??

堤真一「NHKスタジオパークからこんにちは」に生出演藤原紀香さん、スタジオパークからこんにちは

スタジオパークからこんにちはに江波杏子さん登場

土曜ドラマ「刑事の現場」&森山未來

森本食堂の正介さん・高田延彦さんが「スタジオパークからこんにちは」

スタジオパークからこんにちわにヒロイン・貫地谷しほりさん登場

スタジオパークからこんにちわに四草さん役加藤虎之助さん登場

スタジオパークからこんにちわに草々さん役青木崇高さん登場

スタジオパークからこんにちわに和久井映見さん登場その1
スタジオパークからこんにちわに和久井映見さん登場その2
スタジオパークからこんにちわに和久井映見さん登場その3

★★★

酒井法子容疑者を逮捕=吸引ストロー数十本押収−警視庁施設に出頭
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2009年07月13日

NHK大河ドラマ「天地人」◆伊達政宗(松田龍平)

11年度NHK大河ドラマは三代将軍・家光の生母・江(ごう)の生涯を描いた『江〜姫たちの戦国〜』に

★★★

NHK大河ドラマ天地人」原作・火坂雅志、脚本・小松江里子

天地人

第28回「北の独眼竜」7/12

伊達政宗松田龍平

兼続の永遠のライバル。18歳で家督を相続し、伊達家17代を継承する。派手好きで自己主張の強いその性格は、兼続の正反対。母の愛に餓えた壮絶な幼少期の影響で、全てを手に入れたいという支配欲が極めて強い。若くして奥州の覇者の名をほしいままにしていたが、秀吉の台頭により天下人になるという野望は挫折。

「関ヶ原の戦い」以降も徳川家に仕えつつ、幕府転覆の機会をうかがっていた
大河ドラマ 天地人

伊達政宗だてまさむね、1567年9月5日 - 1636年6月27日)は、戦国時代の武将。出羽国(羽州)と陸奥国(奥州)の戦国大名。陸奥仙台藩の初代藩主。

本姓は藤原氏。家系は伊達朝宗を祖とする伊達氏。第16代当主・伊達輝宗と最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の嫡男。幼名は梵天丸、字は藤次郎、諡号は貞山。神号は武振彦命で、青葉神社に祭られる。

幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、また、戦国屈指の教養人として、豪華絢爛を好むことで知られていた。諱の「政宗」は伊達家中興の祖といわれる室町時代の第9代当主・大膳大夫政宗にあやかったもので、この大膳大夫政宗と区別するべく藤次郎政宗と呼ぶことも多い。

永禄10年(1567年)、出羽米沢の米沢城に生まれる[1]。元亀2年(1571年)、疱瘡(天然痘)に罹り右目を失明する。当時、天然痘を治す治療方法はなく、死の病であった。

豊臣秀吉や徳川家康に「右目はどうしたのか?」と聞かれた際において、政宗は「木から落ちたとき、右目が出てきてしまったが、あまりに美味しそうだったので、食べてしまった」と語っている[2]。 また、片倉景綱が容貌を悪くしていた右目を短刀で摘出したという逸話もある。

元亀3年(1572年)、政宗の将来を心配した父・輝宗が招いた臨済宗の虎哉宗乙(こさいそういつ)禅師による厳しい教育が始められ、仏教や漢学を学ぶ。天正3年(1575年)、神職の子である片倉景綱が守り役を命ぜられ側近となる。景綱は政宗の側近中の側近として、時には軍師として生涯忠誠を尽くした。

天正5年(1577年)に元服、天正7年(1579年)には仙道の戦国大名で三春城主田村清顕の娘愛姫を正室とする。天正9年(1581年)、隣接する戦国大名・相馬氏への侵攻に15歳で初陣し、勝利を収める。

天正12年(1584年)に18歳で家督を相続し、伊達家17代を継承する。父・輝宗は41歳の働き盛りでもあり、政宗は当初、若年を理由に辞退を申し出たが、政宗の武将としての素質を見抜いていた輝宗の決意は固く、家督を相続することとなった。

慶長6年(1601年)には仙台城、仙台城下町の建設をはじめ、居城を移す。ここに、伊達政宗を藩祖とする仙台藩が誕生した。仙台藩・62万石は加賀・前田氏、薩摩・島津氏に次ぐ全国第3位であるが、それは表高であり、仙台藩の実高は優に100万石を越えていたといわれる。

伊達政宗 - Wikipedia

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2009年06月13日

『天地人』お涼(木村佳乃)・前田利家(宇津井健)・千利休(神山繁)・福島正則(石原良純)

NHK大河ドラマ天地人」原作・火坂雅志、脚本・小松江里子

天地人第24回「戸惑いの上洛」6/14

お涼木村佳乃):千利休の娘。文化人の顔とは別に、権威の頂点に立ち政治にも干渉する野心家としての側面を持つ父・利休を支え行動を共にする。そんな中、上洛した兼続とも知り合う。さっぱりした性格で、品がいい。 都に出て来て初めて中央の文化に触れた兼続や政宗にとっては、まさに京文化を体現しているような女性として映り、あこがれの対象となる。しかし、利休が秀吉の怒りにふれ切腹を命じられたことから、窮地に陥る。
大河ドラマ 天地人

前田利家宇津井健):14歳で織田信長に仕える。青年時代は血気が盛ん「槍(やり)の又左」の異名を持っていた。また恵まれた体格の持ち主で、容姿も端整であった。性格は「律義者」。

秀吉とは、秀吉が足軽時代から親しく、信長時代は良きライバルであった。豊臣政権下では徳川家康と並ぶ重臣の扱いを受け、秀吉が五大老の制度を整えるとNo.2として大納言の官位を持ち、秀吉の実子である豊臣秀頼を後見する立場となる。
大河ドラマ 天地人

千利休神山繁):

福島正則石原良純):母が秀吉の叔母であったことから幼少より秀吉に仕えた武闘派の武将。加藤清正の盟友で、北政所を強く尊崇していた。会津の上杉討伐に従軍するが、上方で三成が挙兵した知らせを受けて東軍として参戦。「関ヶ原の戦い」後は安芸(あき)広島と備後(びんご)鞆(とも)49万余石の大封(たいほう)を得、広島城の城主に栄転する。

家康・秀頼の会見を取り持つなど、江戸幕府への忠勤に励む一方、豊臣家を主筋(しゅすじ)に立てることも忘れなかった。
大河ドラマ 天地人

北政所富司純子):豊臣秀吉の正室。ねね。秀吉の死後、高台院と名乗る。気の強い女性で、夫の立身出世を糟糠(そうこう)の妻として支え、豊臣政権下では大きな発言力を得た。しかし、子に恵まれず、秀吉につらく当たられたこともあったため、秀吉や自身の親類縁者を養子や家臣として養育していった。その中でも、加藤清正、福島正則は特に有名。

また、秀吉の子を生んだ淀殿とは対立していた。北政所が家康を支持したことで「関ヶ原の戦い」は家康の大勝となった。
大河ドラマ 天地人


NHK大河ドラマ『天地人』第23回「愛の兜」22.0%
NHK大河ドラマ『天地人』第22回「真田幸村参上20.7%

大河ドラマ「天地人」から飛び出す女優は寡黙なこの人
「天地人」はこんなにヘンだ!(週刊朝日 2009年05月29日号配信
妻夫木、小栗ら“美少年武将”が続々登場!「天地人」コミックが携帯配信

★★★2010年NHK大河ドラマ「龍馬伝」★★★
広末涼子 大河ドラマで“福山龍馬”の初恋相手

2008年NHK大河ドラマ『篤姫』

★★★

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<新型インフル>警戒度6「世界的大流行」宣言…WHO

鳩山邦夫総務相が辞任

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「父の日商戦」熱く キーワードは「脱メタボ」「家飲み」

★★★

新型インフル、第二波が怖い

「マスク買い集め」楽天謝罪

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2009年05月25日

NHK大河ドラマ『天地人』石田三成(小栗旬)

「天地人」はこんなにヘンだ!(週刊朝日 2009年05月29日号配信

NHK大河ドラマ天地人

石田三成小栗旬)(2/1〜):10代の頃から秀吉に仕える。兼続とは同じ年で親友。きまじめで正直な性格が災いし反発を買うことも多く、豊臣家家臣の離反を招いてしまう。

石田三成いしだみつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣政権の五奉行の一人。

永禄3年(1560年)、石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)で生まれる。幼名は佐吉。石田村は古くは石田郷といって石田氏は郷名を苗字とした土豪であったとされている(また、観音寺で学習していたとも言われる)。

羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が織田信長に仕えて近江長浜城(長浜市)主となった天正2年(1574年)頃から秀吉の小姓として仕える(天正5年(1577年)説もある)。秀吉が信長の命令で中国攻めの総司令官として中国征伐に赴いたとき、これに従軍した。

関ヶ原の戦い:慶長5年(1600年)7月、三成は家康を排除すべく、上杉景勝・直江兼続らと密かに挙兵の計画を図る(この密約は無かったという説もある)[1]。その後上杉勢が公然と家康に対して叛旗を翻し、家康は諸大名を従えて会津征伐に赴いた。これを東西から家康を挟撃する好機として挙兵を決意した三成は、大谷吉継を味方に引き込もうとする。吉継は、家康と対立することは無謀であるとして反対したが、三成との友誼などもあって承諾した。これには秀吉存命の折の茶会で、らい病を患っていた吉継の膿が茶に落ちたとき余人が回し飲むのをためらった際、三成が吉継のためにそれを飲み干したためその友情に報いようとしたためという説もある。

9月18日に東軍の攻撃を受けて三成の居城・佐和山城は落城し、三成の父・正継をはじめとする石田一族の多くは討死した。

9月22日、大津城に護送されて大津城の門前で生き曝しにされ、その後家康と会見した。9月27日、大坂に護送され、9月28日には小西行長、安国寺恵瓊らと共に大坂・堺を罪人として引き回された。9月29日、京都に護送され、奥平信昌(京都所司代)の監視下に置かれた。

10月1日、家康の命により六条河原で斬首された。享年41。首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園・沢庵宗彭に引き取られ京都大徳寺の三玄院に葬られた。

また一説では、引き回された三成は影武者であり、本物の三成は高知へ逃げて自害したとも言われている。

太閤検地の企画発案者で、検地尺を定めるなど、大きな実績を残した。豊臣家奉行の筆頭格であり、優れた行政能力を持った官僚であったという評価は定着している。

毛利輝元は「かの仁、当時、肝心の人にて、なかなか申すに及ばず。大かた心得にて候(大いに気を使う)」、島津義弘は「江州佐和山の城主・石田治部少輔、太閤公の股肱の臣として、その勢威、比肩の人なし」、高野山の木食応其上人は「治少(治部少輔)、御奉行のその随一なる顔にて候つる。少しもそむけ候えば、たちまち身のさわりをなす仁にて候」とそれぞれ評し、三成が豊臣政権で絶大な権力を握っていたことをあらわしている。

不正を極度に嫌い、情実も介さず、常に自らの信念に基づいて豊臣政権の行政を司っていた。そのあまりな謹厳実直な性格が、周囲からは融通のきかない傲岸不遜、横柄な態度と映り、諸大名からの人望を得られず、加藤清正ら武功派諸将の三成襲撃、関ヶ原での大敗を招いた。

江戸時代には三成は悪人と見なされたが、明治に入ってもなお奸臣説が強く、秀次を讒訴したとか、秀吉自身は秀頼を家康に託すよう遺言したのに三成がそれに背き、天下を狙って家康と戦ったと説かれていた。三成の再評価を志した三井の朝吹英二は、三成の墳墓発掘などを行ったほか、歴史家・渡辺世祐に依頼し、渡辺は三上参次と協力して明治40年に『稿本石田三成』を上梓、三成奸臣説に論駁している。現在では実証的な評論が行われ、正確な三成像を描く模索が続いている。

石田三成 - Wikipedia

石田三成の生涯
石田三成(小栗旬) - @niftyテレビ番組表「天地人」特集
石田三成プロフィール
石田三成のページ
石田三成逸話集
YouTube - 戦国無双2-石田三成MOVIE-

★★★

“歴女”の囲い込みでもNHKに後れをとっている民放の嘆き
五月人形、一騎打ち 政宗天下に迫る「愛」
【KANSAIハヤ耳】男の“勝負”下着「甲冑パンツ」
大河「天地人」ボーイズラブ風?で漫画化
NHK、大河ドラマ「天地人」でサブリミナル的?演出
NHK『天地人』織田信長役吉川晃司さんインタビュー(NHK・HPより)

★★★

★★NHK大河ドラマ『天地人』・話題★★★
posted by 天地人 at 02:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 『天地人』・キャスト

2009年05月10日

NHK大河ドラマ『天地人』織田信長(吉川晃司)

新型インフルエンザ:基礎知識 まず身近な予防策

★★★

ドラマに出演していたらつい見てしまう男性有名人ランキング 2009
大河「天地人」好スタートは「篤姫」視聴習慣の賜物か

篤姫超え!NHK大河「天地人」24.7%
NHK大河「天地人」 初回は21・8%

NHK大河ドラマ天地人」1/4〜

織田信長吉川晃司):尾張の大名。古い権力や迷信を排除し、大胆な戦略や人材登用などで天下統一を図る。その強引なやり方から魔王とも呼ばれた。明智光秀の謀反により本能寺で自害。

吉川晃司、信長で親孝行!85年NHK出禁で親不孝も大河初出演

★★★

吉川晃司きっかわこうじ、1965年8月18日 - )は、日本のミュージシャン、俳優。本名、同じ。戦国大名毛利元就の次男・吉川元春の子孫。

広島県安芸郡府中町出身。自身設立の所属事務所、アクセルミュージックエンターテイメント代表取締役社長。身長182cm。

1984年、シングル『モニカ』で歌手デビュー。『LA VIE EN ROSE』、『KISSに撃たれて眠りたい』、『VENUS 〜迷い子の未来〜』や布袋寅泰とのユニット、COMPLEXでの『BE MY BABY』などのヒット曲で知られる。また、デビュー当時は映画に多数出演しており、一時期は俳優業からは遠ざかっていたが、近年映画で活動している。

広島の男子進学校である修道中学校時代から水球の選手として活躍し、修道高校時代には世界ジュニア水球選手権大会の日本代表。また2年連続全日本高校最優秀選手に選ばれたほどの逸材で、最年少日本代表としてイタリア・エジプト遠征にも参加した。なお、広島屈指の進学校である修道中学校を受験した理由は、「制服の袖の部分に2本の白線があり、それがカッコよかったから」。合格したものの授業についていけず、いきなり落ちこぼれたとメディアでも語っている。しかも、いざ入学するとその2本の白線で、修道中学校生だと判ってしまい、悪いことが出来なかった為、嫌いになってしまったそうである(入学後は、その白線を物と擦って消していたそうである)。
バンド活動(EIGHT CITYS FISH BAND/通称:はまちバンド)も平行して行っていたが、佐野元春のコンサートを見て、カルチャーショックを受け音楽一本に絞る。「音楽の世界でビッグスターになる」とその後のサクセスストーリーをプランした吉川はまずはスカウトされてと考えたが、田舎でスカウトされる筈も無くシビれを切らし、渡辺プロダクションに「広島にスゴい奴がいる、見に来ないと一生悔いを残す」などと自ら手紙を書き送りつけた。なお、何故ナベプロかといえば「沢田研二、アン・ルイス、などが当時所属していたのがナベプロで、ここがいいな」と言い(吉川本人の回想)、他のプロダクションは知らなかった。

1984年2月1日シングル『モニカ』でデビュー。この曲は、主演映画『すかんぴんウォーク』の主題歌でもあった。その後『サヨナラは8月のララバイ』、『LA VIE EN ROSE』、『ユー・ガッタ・チャンス』(オリコン3週連続1位)、『にくまれそうなNEWフェイス』(オリコン1位)、『RAIN-DANCEがきこえる』(オリコン4位)、『キャンドルの瞳』(オリコン2位)と立て続けにヒットシングルをリリースし。1984年の日本歌謡大賞最優秀新人賞、日本アカデミー賞新人賞など歌手と俳優の両部門で8つの新人賞を独占した。翌1985年にはNHK紅白歌合戦に出場した。
この1985年の第36回NHK紅白歌合戦では、トップで登場したが、白組なのに真赤な衣装で酒を撒き散らかしながら登場し、セットを壊したあげく曲の終了間際にギターを燃やした。この煽りを受けた河合奈保子が登場を妨害され歌唱曲『デビュー』の出だしが歌えなかった、更に酒浸しになったステージ上で歌うこととなったシブがき隊の布川敏和が足を滑らせ転倒した。この逸話は今や伝説となっているが、「雨の西麻布」をひっさげこの紅白への出場を狙うと公言していた(結果は落選)とんねるずの石橋貴明にも、紅白後すぐの正月の生番組で「吉川、やってくれました!」と絶賛されていた。もちろんNHK側からは出入り禁止とされたが、後年解除され『ポップジャム』に何度か出演、ドラマ『真夜中は別の顔』(2002年4月1日〜5月23日OA、共演:瀬戸朝香、小雪、玉山鉄二他)にも主演した。またこの年の始めに、デビュー1年目では史上2人目の日本武道館公演を行った。また、初期に行われた学園祭コンサートで、体育館にある緞帳(どんちょう)にぶら下がり、緞帳をビリビリに破いてしまったことがある。その弁済金は、1,000万円だったという(本人が『笑っていいとも』に出演した際に告白し、「緞帳を破って、100万円の借金を作ってしまった」と言っていたが、その後ファンクラブの会報誌で「1,000万円」と訂正した)。
1988年に一時活動を停止した後、渡辺プロダクションから子会社独立と言う形で、マネージャーの河村嚴生氏が代表取締役社長のセブンスエンタープライズ所属になる。レコード会社を東芝EMIに移籍。

吉川晃司 - Wikipedia

吉川晃司、信長で親孝行!85年NHK出禁で親不孝も大河初出演

★★NHK大河ドラマ『天地人』・話題★★★

★★★2010年NHK大河ドラマ「龍馬伝」★★★

NHK天地人」 : 大河ドラマ情報
大河ドラマ 天地人 http://www3.nhk.or.jp/taiga/

天地人 (NHK大河ドラマ) - Wikipedia

NHK大河ドラマ天地人」特集 - @niftyテレビ番組表

天地人直江兼続生誕の地 新潟県南魚沼市

直江兼続 - Wikipedia

直江兼続とは?

直江兼続

天地人直江兼続米沢.com


NHK 大河ドラマ 天地人 直江兼続 妻夫木聡 北村一輝

posted by 天地人 at 18:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 『天地人』・キャスト

2009年05月03日

徳川家康・明智光秀・吉江宗信・安部政吉


NHK大河ドラマ「天地人」第18回「義の戦士たち」5/3

★★★

吉江宗信山本圭):謙信家臣団の中でも文治派に属し、意見が分かれたときにはまとめ役に徹した。「御館の乱」においては景勝方につき、軍功を立てる。しかし、「魚津城の戦い」では織田軍の攻撃に上杉本陣の救援が間に合わず、安部政吉を始めとする家臣たちと共に壮絶な死を遂げる。 大河ドラマ 天地人

★★★

安部政吉葛山信吾):景勝の家臣。兼続の小姓仲間の中でも、リーダー的な存在で、景勝の側に仕え続けた。

しかし「魚津城の戦い」では柴田勝家率いる織田軍の攻撃に上杉本陣の救援が間に合わず、吉江宗信らと共に壮絶な死を遂げる
大河ドラマ 天地人

★★★

ブロガー唖然!?『天地人』ほか、天地人話題&第1回〜第16回

★★★

男性が“なりたい顔”、1位は福山雅治
草なぎ剛さん謝罪会見「SMAPメンバーに戻りたい」

★★★

NHK大河ドラマ天地人第17回「直江兼続誕生」(4/25)

武田勝頼市川笑也):武田信玄の四男。信玄の死で家督を相続した。長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れ、武田家は衰退していく。上杉家の後継者争い「御館の乱」で、それまで対立していた越後と同盟を結び、妹の菊姫を景勝に嫁がせる。しかし、信長の武田攻めで追い詰められた末に自害。武田家は滅亡する。
大河ドラマ 天地人

★★★

明智光秀鶴見辰吾):将軍家再興を志す足利義昭と織田信長の間を取り持つ。義昭が信長に追放された後も信長の重臣として仕える。

しかし、衆人の面前で罵倒(ばとう)されたり、光秀の功績を踏みにじるかのような信長に対し、ついに謀反を決意。本能寺で信長を自刃に追い込む。大河ドラマ 天地人

★★★

徳川家康松方弘樹):秀吉の死後、次の天下人として台頭。兼続・三成共通の敵。兼続は「謀反の兆しあり」と言いがかりをつけてきた家康に、「直江状」と呼ばれる挑発的な内容の返書を送って家康を激怒させ、「関ヶ原の戦い」の遠因となる会津討伐を引き起こした。

関ヶ原は家康の勝利に終わり、本来なら兼続も切腹のはずだったが、兼続の筋の通った態度が家康をも魅了し、米沢30万石に減封(げんぽう)されながらも、上杉家は存続することとなった。
大河ドラマ 天地人

ブロガー唖然!?『天地人』ほか、天地人話題&第1回〜第16回

★★NHK大河ドラマ『天地人』・話題★★★

★★★2010年NHK大河ドラマ「龍馬伝」★★★

2008年NHK大河ドラマ『篤姫』

NHK朝の連続テレビ小説『つばさ』

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2009年04月25日

NHK大河ドラマ『天地人』豊臣秀吉(笹野高史)

ブロガー唖然!?『天地人』ほか、天地人話題&第1回〜第16回

★★★

男性が“なりたい顔”、1位は福山雅治
草なぎ剛さん謝罪会見「SMAPメンバーに戻りたい」

★★★

NHK大河ドラマ天地人第17回「直江兼続誕生」(4/25)

豊臣秀吉笹野高史)信長の後を継ぎ、天下統一を成し遂げる。その後、大坂城を築き関白・太政大臣に任ぜられる。「人たらし」として知られるほど人間関係の結び方に長けていた秀吉だったが、天下人になっていくにつれ、周囲がイエスマンばかりになっていく。

裏切られるのではないかという不安に常に怯える中で、秀吉は、利害関係に基づかない、兼続と景勝の純粋な主従関係を羨ましく思い、兼続を引き抜こうとする。大河ドラマ 天地人

豐臣秀吉(とよとみ の ひでよし/とよとみ ひでよし)/羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代(室町時代後期)から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。本姓は豊臣氏。生まれは尾張国の半農半兵の家。はじめ木下氏を名字とし・羽柴氏に改める。本姓としては、はじめ平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、豊臣氏に改める。

尾張国愛知郡中村の百姓として生まれ、織田信長に仕え、次第に頭角を表す。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、中国大返しにより京へと戻り、山崎の戦いで光秀を破り、信長の後継の地位を得る。その後、大坂城を築き関白・太政大臣に任ぜられた。豊臣姓を賜り、日本全国の大名を従え天下統一を成し遂げた。太閤検地や刀狩などの政策を採るが、慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して没した。

墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、石垣山一夜城など機知に富んだ逸話が伝わり、百姓から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。

豐臣秀吉 - Wikipedia

豊臣秀吉
豊臣秀吉

笹野高史ささのたかし、1948年6月22日 - )は、兵庫県津名郡一宮町(現淡路市)出身の俳優。日本大学芸術学部中退。自由劇場を経て、グランパパプロダクション所属。身長167cm、体重57kg。特技はトランペット。

コミカル、シリアス、真面目、堅物と、どのような役柄でも独特の味わいを見せる。山田洋次監督作品の常連でもあり、時代劇には欠かせない存在である。原則としてくる仕事を拒まないことから『ワンシーン役者』を自称する

淡路島の造り酒屋に四男として誕生するが、幼くして相次ぎ両親を亡くした。

日本大学芸術学部映画学科在学中の1968年に自由劇場にスタッフとして入団する。一時は船員になったこともあったが、元々の夢である俳優を諦めきれず、1972年に『ヴォイツェク』で初舞台を踏み、俳優活動を開始。1979年の舞台『上海バンスキング』のバクマツ役で注目された。1982年には同劇場を退団するが、舞台には座友として参加する。

『コクーン歌舞伎』、『平成中村座』などにも出演し、淡路屋の屋号を持つことで知られる。歌舞伎出演の記者会見では「民間からの参加です」と言っている。新派劇にも水谷八重子、波乃久里子の相手役で参加する事が多い。

1985年の『男はつらいよ 柴又より愛をこめて』以来、山田洋次監督作品の常連者となる。原則として来る仕事は拒まず、ワンシーン役者を自称して活動を続け、2007年には山田監督の『武士の一分』で第30回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞をはじめ数々の賞を受賞した。

また、「どんな役にもカッコよさがある」をコンセプトとしており、台詞の裏に隠された役の深みを知るために台本の余白部分には担当役の履歴書を自分なりに書き込んでいる。

長く独身であったが42歳にして17歳年下の劇団研究生の女性と結婚した。2000年代に入ると、バラエティ番組にも出演するようになり、年の差結婚と年の離れた4人の息子たちがトーク番組でよくネタにされた。

近年では髪の毛が少なくなってきていることもあり老人の役を演じる事が多い。また、頑固な公務員・教師を演じさせたら右に出る者はいないといわれている。

また役者になるまえは船員としての経験があり、海の荒波できたえられたタフガイでもあり、プライベートでは演技で見せるひ弱さは一切感じられない。

笹野高史 - Wikipedia




★★★

ブロガー唖然!?『天地人』ほか、天地人話題&第1回〜第16回

★★NHK大河ドラマ『天地人』・話題★★★

★★★2010年NHK大河ドラマ「龍馬伝」★★★

2008年NHK大河ドラマ『篤姫』

NHK朝の連続テレビ小説『つばさ』

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NHK大河ドラマ『天地人』徳川家康(松方弘樹)

ブロガー唖然!?『天地人』ほか、天地人話題&第1回〜第16回

★★★

男性が“なりたい顔”、1位は福山雅治
草なぎ剛さん謝罪会見「SMAPメンバーに戻りたい」

★★★

NHK大河ドラマ天地人第17回「直江兼続誕生」(4/25)

徳川家康松方弘樹):秀吉の死後、次の天下人として台頭。兼続・三成共通の敵。兼続は「謀反の兆しあり」と言いがかりをつけてきた家康に、「直江状」と呼ばれる挑発的な内容の返書を送って家康を激怒させ、「関ヶ原の戦い」の遠因となる会津討伐を引き起こした。

関ヶ原は家康の勝利に終わり、本来なら兼続も切腹のはずだったが、兼続の筋の通った態度が家康をも魅了し、米沢30万石に減封(げんぽう)されながらも、上杉家は存続することとなった。
大河ドラマ 天地人

コ川家康とくがわいえやす)は、日本の戦国武将・江戸幕府の初代征夷大将軍。 本姓は当初藤原氏と、次いで源氏と名乗った[1]。家系は三河国の国人土豪・松平氏。

永禄9年12月29日、勅許を得て徳川氏に改姓。徳川氏の祖。通称は次郎三郎。幼名は竹千代。

死の直前、太政大臣に叙せられている[2]。

死後、江戸時代を通じて、御家人・旗本には「神君」、「東照宮」、一般には「権現(様)」(ごんげん-さま)と呼ばれていた。

応仁の乱以降100年以上続いた戦乱に終止符を打ち、織田信長、豊臣秀吉により統一された天下を更に磐石のものとし、264年間続いた江戸幕府を開府し、その礎を築いた。日光東照宮・久能山東照宮などで「東照大権現」(とうしょうだいごんげん)として祀られている。

戦国時代に、三河国・岡崎に岡崎城主・松平広忠の子として出生。幼名は竹千代。当時の松平氏は弱小であり、広忠は臣従していた今川氏に竹千代を人質として差し出す事となった。一時、家臣の裏切りにより織田氏の人質となるが、最終的には当初の予定通り今川氏に送られた。

今川氏の元で人質として忍従の日々を過ごすが、桶狭間の戦いにおいて今川義元が討たれた後、今川氏の混乱に乗じて独立し、織田信長の盟友(事実上は客将)として版図を広げていく事となる。やがて、本能寺の変において信長が明智光秀に討たれると、その混乱に乗じさらに勢力を広げた。

豊臣秀吉との小牧・長久手の戦いを経て豊臣氏に臣従。秀吉の元で、家康は最大の領地を得る事となり、豊臣政権の五大老筆頭となる。秀吉の死後、関ヶ原の戦いに勝利し、天皇から征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府(江戸幕府・徳川幕府と呼ぶ)を開いた。

1. 徳川家康 - Wikipedia

2. 徳川一族
3. 徳川家康
4. 徳川家康(松方弘樹) - @niftyテレビ番組表「天地人」特集
5. 徳川家康公

松方弘樹まつかたひろき、本名:目黒 浩樹(めぐろ こうじゅ)、1942年7月23日 - )は日本の俳優。所属事務所はバーニングプロダクション。血液型はA型。

時代劇俳優近衛十四郎と女優水川八重子の長男。
弟は俳優の目黒祐樹。
義妹は女優の江夏夕子。前々妻との間に長男の目黒大樹、前妻で女優の仁科亜季子との間に次男の仁科克基と長女の仁科仁美、元愛人で女優の千葉マリアとの間に四男の十枝真沙史、弟の祐樹と義妹の江夏の間に姪の近衛はながおりそれぞれ芸能界に入っている。

元来は歌手志望であり、作曲家の上原げんとの下で五木ひろしらと席を並べて歌を学んでいたが、五木の歌声を聞いているうちに自信を無くし、父と同じ俳優の道に入った。

17歳で東映から俳優デビュー。当初は北大路欣也とライバル視されていた。以来長年東映に所属し、時代劇、ヤクザ映画を中心に活躍し、多くの主演作を残している。1969年から1970年には亡くなった市川雷蔵の代わりに大映にレンタル移籍し、ここでも数々の主演作がある。1970年春、ダイニチ映配設立に反対して永田雅一社長の逆鱗に触れて、半年干される。 大映の倒産直前の1971年春に東映に復帰。脇役が多かったが、1973年から始まる菅原文太主演の「仁義なき戦い」シリーズでの鬼気迫る演技が認められ、1970年代半ば以降は東映ヤクザ映画の主演スターとして大活躍するようになる。1990年代の終わり頃からはVシネマで活躍することが多くなる。

大物俳優としての豪快さと貫禄を感じさせる言動も多い一方、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』などのバラエティ番組で涙を流しながら笑い転げたり、飲みの席で客人に自ら水割りを作ってふるまうなど飾らない一面を見せることもある。多くの名優との交友関係も知られ、その温厚な性格から芸能界での人望も厚いと伝えられる。

だが、その一方で華やかな女性関係や2度の離婚などで私生活でも話題が多かった。仁科亜季子との離婚時、松方の家庭内暴力がマスコミに喧伝され、イメージ低下により多くの芸能活動を降板した経緯がある。また、かつて不倫が発覚した際に、パイプカットをしたことで話題になった。

趣味は釣りで、年に何度か山口県萩市の見島沖、八里ヶ瀬と呼ばれる海域周辺でマグロの一本釣りを楽しんでいる。実際、見島のある旅館には松方弘樹と名前が書かれた釣り道具が常置されている。マグロ釣り大会の実行委員を務めるほどで2008年11月23日に行われた大会では約350sのクロマグロを釣り上げ、195万円の値がついた。

その他には滋賀県の雄琴にあったソープランド「千姫」のオーナーも勤めていた事があった。

松方弘樹 - Wikipedia

★★★

ブロガー唖然!?『天地人』ほか、天地人話題&第1回〜第16回

★★NHK大河ドラマ『天地人』・話題★★★

★★★2010年NHK大河ドラマ「龍馬伝」★★★

2008年NHK大河ドラマ『篤姫』

NHK朝の連続テレビ小説『つばさ』

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NHK大河ドラマ『天地人』明智光秀(鶴見辰吾)

ブロガー唖然!?『天地人』ほか、天地人話題&第1回〜第16回

★★★

男性が“なりたい顔”、1位は福山雅治
草なぎ剛さん謝罪会見「SMAPメンバーに戻りたい」

★★★

NHK大河ドラマ天地人第17回「直江兼続誕生」(4/25)

明智光秀鶴見辰吾):将軍家再興を志す足利義昭と織田信長の間を取り持つ。義昭が信長に追放された後も信長の重臣として仕える。

しかし、衆人の面前で罵倒(ばとう)されたり、光秀の功績を踏みにじるかのような信長に対し、ついに謀反を決意。本能寺で信長を自刃に追い込む。大河ドラマ 天地人

明智光秀あけちみつひで)は、戦国時代、安土桃山時代の武将。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系で摂津源氏の傍流で、美濃源氏の流れを汲む土岐氏の支流である明智氏。通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。

正室は妻木範煕の娘煕子。2人の間には、織田信澄室、細川忠興室珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男光慶(十五郎)がいる。

明智光秀 - Wikipedia

No.042 明智光秀は殺されていなかった!
新説・日本の歴史第23弾 明智光秀と天海
明智光秀の生涯


★★★

ブロガー唖然!?『天地人』ほか、天地人話題&第1回〜第16回

★★★2010年NHK大河ドラマ「龍馬伝」★★★

2008年NHK大河ドラマ『篤姫』

NHK朝の連続テレビ小説『つばさ』

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NHK大河ドラマ『天地人』武田勝頼(市川笑也)

ブロガー唖然!?『天地人』ほか、天地人話題&第1回〜第16回

★★★

男性が“なりたい顔”、1位は福山雅治
草なぎ剛さん謝罪会見「SMAPメンバーに戻りたい」

★★★

NHK大河ドラマ天地人第17回「直江兼続誕生」(4/25)

武田勝頼市川笑也):武田信玄の四男。信玄の死で家督を相続した。長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れ、武田家は衰退していく。上杉家の後継者争い「御館の乱」で、それまで対立していた越後と同盟を結び、妹の菊姫を景勝に嫁がせる。しかし、信長の武田攻めで追い詰められた末に自害。武田家は滅亡する。
大河ドラマ 天地人

武田勝頼たけだかつより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐の武将・戦国大名。甲斐武田家第20代当主。武田二十四将の一人と数える場合もある。

当初は諏訪氏を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃・伊奈谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、武田四郎、武田四郎勝頼とも言う。父信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。

父は武田晴信(信玄)。母は信玄の側室である諏訪頼重の娘・諏訪御料人。正室は織田信長の養女・遠山夫人。継室に北条氏康の娘の北条夫人など。

信濃への領国拡大を行った信玄の庶子として生まれ、諏訪氏を継ぎ高遠城主となる。武田氏の正嫡である義信が信玄後期の義信事件により廃嫡されると継嗣となり、元亀4年(1573年)には信玄の死により家督を相続する。越後との対立から甲相駿との同盟を破棄し駿河へ侵攻、西上作戦を行い三河に進出した信玄の方針を継承し、織田信長、徳川家康と対峙するが、天正3年(1575年)長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に大敗を喫する。以後急速に勢力が減退。越後と同盟し外交方針を転換するが、織田・徳川両氏と相模の後北条氏との両面作戦を余儀なくされ、領国の動揺を招く。政権末期には本国で新府城への府中移転により領国維持をはかるが、織田信長の侵攻(武田征伐)により失敗。1582年3月11日、天目山で自殺。これにより武田氏は滅亡した。

近世から近現代にかけて神格・英雄化された信玄との対比で武田氏滅亡を招いたとする否定的評価や悲劇の当主とする好意的評価など相対する評価がなされており、武田氏研究においても単独のテーマとしては扱わることが少なかったが、近年では新府城の発掘調査を契機とした勝頼政権の外交政策や内政、人物像など多様な研究が行われている。

武田晴信の四男として生まれる。生誕地や生月日は不明。母は信虎後期から晴信初期に同盟関係であった信濃諏訪領主・諏訪頼重の娘「諏訪御料人」(実名不詳、乾福院殿)で、諏訪氏は同盟関係が破綻したため天文11年(1542年)に滅ぼされ、諏訪御料人は晴信の側室として武田氏の居城である甲府の躑躅ヶ崎館へ迎えられた(『高白斎記』天文11年条)。

武田勝頼 - Wikipedia

1. 武田信玄・勝頼と家臣たち 〜真の武田軍団に迫る〜
2. 武田勝頼
3. 武田勝頼
4. 武田勝頼〜城と古戦場〜

★★★

ブロガー唖然!?『天地人』ほか、天地人話題&第1回〜第16回

★★NHK大河ドラマ『天地人』・話題★★★

★★★2010年NHK大河ドラマ「龍馬伝」★★★

2008年NHK大河ドラマ『篤姫』

NHK朝の連続テレビ小説『つばさ』

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2009年04月13日

NHK大河ドラマ『天地人』上杉影虎(かげとら)(玉山鉄二)

NHK大河ドラマ「天地人」第15回「御館落城」(4/12)
御館の乱

「篤姫」超える!常盤貴子、登場シーン発案・常盤貴子、夫役の妻夫木は「尊敬できる」
「天地人」泣ける7歳子役が泣かせる演技

NHK大河「天地人」最終回は11月22日

NHK大河ドラマ天地人」1/4〜

上杉景虎
玉山鉄二):関東を支配する北条氏康の七男。美しく聡明で、謙信の養子となったが、遺言が残されなかったため「御館の乱」を起こし、景勝と戦う。

玉山鉄二(たまやま てつじ、1980年4月7日 - )は、日本の俳優。京都府城陽市出身。身長182cm。体重65kg。メリーゴーランド所属。

姉が三人いて、末っ子長男として生まれた。兄弟からはてっちゃんと呼ばれている。父親は自宅で結婚式などで撮影した写真を編集する仕事をしている
中学時代は陸上部で活躍。
京都府立西城陽高等学校卒業。
高校在学中に姉の知り合いの美容師から「カットモデルをやらないか?」と誘われ、軽い気持ちで受けてみたものの、モデル業は思っていたよりも楽しいもので、その後事務所の先輩(当時)の俳優・柏原崇に憧れて雑誌モデルに応募し、雑誌「CHECKMATE」などのモデルとして活躍。
1998年オーディション情報誌「月刊デ・ビュー」(オリコン・エンタテインメント刊)掲載のオーディションを通じて現事務所に所属。高校卒業と同時に上京する。
1999年6月、ドラマ『ナオミ』で俳優デビュー。
2001年、ドラマ『百獣戦隊ガオレンジャー』のガオシルバー・大神月麿(おおがみつくまろ)役で一躍子供とママ達のヒーロー的存在に。
2002年、P&G衣料用洗剤「ボールド」のCM出演開始。毎回個性豊かな男性陣(俳優、格闘家、お笑いタレント)と共演し長期シリーズに。
2005年、映画『逆境ナイン』で初主演。同年TBS系ドラマ『ブラザー☆ビート』でテレビドラマ初主演。

玉山鉄二 - Wikipedia

★★★

上杉景虎うえすぎかげとら)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

幼少時は、箱根早雲寺に僧として過ごした。北条氏康・武田信玄・今川義元の三国同盟が成立すると武田家に人質として送られたといわれていた。しかし、近年では武田家には送られた説を否定し「関八州古戦録」の創作であるというのが通説である(「関八州古戦録」以前の系図や軍記、史料には、この話がみられない上に武田側の史料にも発見できない)。また正確な生年も不明である。

永禄12年(1569年)、大叔父に当たる北条幻庵(北条長綱)の養子となり幻庵の娘を妻とした。小机衆を束ね、江戸城の武蔵遠山氏とも近しくしていた(ここで言う氏秀は別人の可能性もある、後述)。

元亀元年(1570年)、北条氏康が上杉輝虎(謙信)と和睦して越相同盟が結ばれた際に、謙信の養子(人質)として上杉家に赴く(当初、氏政の子国増丸が養子として決定していたが、幼子を養子に出すのは忍びないとの理由で養子から外された(1569年10月)[1]。三郎の養子決定はその直後ではなく、一旦、北条幻庵の養子に入り(1569年12月以降)、再び、上杉の養子として越後行きが決定している(1570年2月以前)。人質としての待遇も当然の成り行きであったが、生涯独身の謙信は美男で聡明な三郎を大いに気に入ったと言われ、自らの姪にあたる越後長尾家の一門・長尾政景の娘(上杉景勝の姉)を妻として与え、自身の名乗りであった「景虎」を継がせるなど、上杉一門として厚遇している

天正6年(1578年)、謙信が病没すると、義弟(義兄とも)の景勝(顕景)と家督を巡って対立。これが御館の乱である。上杉景信・本庄秀綱・北条高広らの支持を集め、景虎の実家である北条家とその同盟国である武田家の後ろ盾もあり、当初は景虎が優勢であった。景勝側はいち早く春日山城本丸・金蔵を奪取、謙信の後継者は景勝であると称し、景虎は妻子らを連れて春日山城を脱出し、城下にある御館(上杉憲政の屋敷)に立て籠もった。北条家はひとまず武田へ景虎への援軍を打診し、武田軍が越後へと入った。 しかし、景勝側は春日山城内の黄金を大いに使い、武田勝頼に対し多量の黄金の譲渡と上野沼田の割譲・武田氏との同盟を提案。武田氏は同時に景虎方とも交渉を進めたが景虎方は武田へ十分な条件を提示することが出来ず、武田勝頼は景勝方を支持。初めは優勢であった景虎側は武田軍の支援を失い次第に劣勢へと追い詰められていった。

翌・天正7年(1579年)、雪で北条家からの援軍も望めない中で御館は落城、景虎正室は実弟・景勝による降伏勧告を拒絶して自害し(通説では24歳とされる)、また嫡男道満丸も憲政に連れられ景勝の陣へと向かう途中に憲政ともども景勝の兵によって殺害され(他の子供達も両親とほぼ同時期に死去したものといわれる)、無援となった景虎は兄(北条氏政)を頼って小田原城に逃れようとした。しかし、その途上において鮫ヶ尾城主・堀江宗親の謀反に遭って自害を余儀なくされた。享年26とされる。法名は「徳源院要山浄公」。

墓所について、『北越軍記』には常安寺とあるが実際には常安寺には景虎の墓はないという。また新潟県妙高市の勝福寺には景虎の供養塔がある。上杉景虎 - Wikipedia


上杉影虎

. 上杉景虎と御館の乱
. 〜ひろぞう戦国物語〜
. takepon: 上杉 影虎 終焉の地!!!

上杉影虎上杉景虎

上杉景虎と御館の乱

. takepon: 上杉 影虎 終焉の地!!!

. 〜ひろぞう戦国物語〜
. 戦国時代 上杉三郎影虎 あらすじ/書評

景虎の最期

★★★★

「まるでBLドラマ」NHK大河『天地人』に腐女子が熱視線!?(日刊サイゾー)

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2009年03月16日

NHK大河ドラマ『天地人』上杉景勝(北村一輝)

御館の乱

ドラマに出演していたらつい見てしまう男性有名人ランキング 2009
大河「天地人」好スタートは「篤姫」視聴習慣の賜物か

篤姫超え!NHK大河「天地人」24.7%
NHK大河「天地人」 初回は21・8%

NHK大河ドラマ天地人」1/4〜

上杉景勝北村一輝):長尾家当主・政景の息子として生まれ、叔父・謙信の養子となり上杉家を継いだ。口数が少なく物静。兼続とは強い絆で繋がっている。

北村一輝が準主役!妻夫木が仕える武将・上杉景勝

★★★

上杉景勝うえすぎかげかつ)、長尾 顕景(ながお あきかげ)または長尾 景勝(ながお かげかつ)[1]は、戦国時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権の五大老の一人。出羽米沢藩初代藩主。

弘治元年(1555年)、越後国(現・新潟県)に上田長尾家当主・長尾政景の次男として生まれる。生母は長尾景虎(上杉謙信)の実姉・仙桃院で、景虎の甥に当たる。早世した兄に代わり、世子となるが、永禄7年(1564年)、父の政景が死去し、春日山城に入って叔父の上杉輝虎(謙信)の養子となった。永禄9年(1566年)、謙信の関東出兵が初陣であるとされている。景勝は、越中の将椎名康胤の取成や謙信旗本の吉江資堅の軍役を定めるなど、謙信政権下で重要な役割を担っていく。

天正6年(1578年)、謙信が死去すると、北条家からの人質として送られてきた謙信の養子で義兄(または義弟)上杉景虎との相続争いが勃発する(御館の乱)。これは謙信が後継体制を整えないうちに急死してしまったことや、越後の長尾諸家を中心とした、何代にも渡る権力争いなどの複雑な事情が背後に絡んでいるとされる

御館の乱の混乱が続く天正9年(1581年)、乱の恩賞問題により対立状態にあった北越後の新発田重家が織田信長と通じて造反した上、織田家譜代柴田勝家率いる織田軍に越中にまで侵攻される。翌年には武田氏が滅亡したため、武田家の後ろ盾を失うなど、上杉家は滅亡の危機に立たされた。

天正10年(1582年)、侵攻する織田軍は越中を完全に制圧し、上杉家はまさに窮地に立たされるが、6月2日、織田信長が本能寺にて自害したため(本能寺の変)織田軍の北征は頓挫し、上杉家は九死に一生を得た。しかし、織田氏の侵攻に加え、御館の乱後の混乱が長期化し、自力のみによる沈静化ができなくなったことから、謙信が一代で拡大した上杉氏の国力は著しく衰退し、上杉家の力は急激に凋落の一途を辿った

信長の死後、北信濃に侵攻し、北条氏直と争うが、北信濃4郡の割譲を条件に後北条氏と講和した(天正壬午の乱)。信長の天下統一事業を継いだ羽柴秀吉(豊臣秀吉)が台頭すると、秀吉に味方し、天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いでは越中侵攻を命ぜられた

慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去すると、家老の直江兼続が五奉行の石田三成と懇意にあった事などの経緯から徳川家康と対立する。同年9月、秀吉の葬儀のため、上洛。慶長5年(1600年)2月になると、景勝は夏までに領内諸城の補修を命ずる。3月になると鶴ヶ城が将来手狭になると考え、会津盆地のほぼ中央に位置する神指に新城の建築を命ずる。

慶長6年(1601年)、景勝が兼続と共に上洛、家康に謝罪した上で上杉氏の存続は正式に許された。なお、文禄4年(1595年)、景勝夫人菊姫、兼続夫人お船の方は証人として伏見邸に入っていたが、両夫人は引き続き徳川の証人として、伏見邸に留め置かれた(『米沢市史・近世編1』より)。しかし改易は免れたものの、置賜、信夫、伊達の3郡からなる出羽米沢30万石藩主として減移封され、上杉家は信越の強大な大大名から景勝一代において出羽半国の一大名へと没落した。

減封後は米沢藩の藩政確立に尽力した。

慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣では徳川方について先鋒として鴫野の戦いなどで大功を挙げる。翌慶長20年(1615年)2月、下国し、同年4月、大坂夏の陣では京都警備を担当し、八幡山に布陣した。

元和7年(1621年)、山形藩主最上義俊の改易に際して、その居城・山形城の受け取りを務めた。

元和9年(1623年)3月20日、米沢で死去。享年69。後を庶長子定勝が継いだ。

墓所:遺骨は和歌山県高野町の高野山清浄心院、遺灰と衣冠は山形県米沢市の御廟の上杉家御廟所に、それぞれ納められている。

上杉景勝 - Wikipedia

上杉景勝

2. 寡黙の名将・上杉景勝
3. 菊姫 (上杉景勝正室) - Wikipedia
4. 上杉景勝
5. 上杉景勝.net

上杉景勝

. 寡黙の名将・上杉景勝
. 菊姫 (上杉景勝正室) - Wikipedia
. 上杉景勝の列伝
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上杉影虎上杉景虎

上杉景虎と御館の乱

. takepon: 上杉 影虎 終焉の地!!!

. 〜ひろぞう戦国物語〜
. 戦国時代 上杉三郎影虎 あらすじ/書評

景虎の最期

★★★★

「まるでBLドラマ」NHK大河『天地人』に腐女子が熱視線!?(日刊サイゾー)


上杉景虎と御館の乱
『天地人』と御館の乱と。 - 酒と漫画と歴史と腐女子
変身のための起源論: 上杉家「御館の乱」と謙信暗殺説
御館の乱
御館 埋もれた古城
上杉景虎と関東管領職―御館の乱を背景にして - 歴史〜とはずがたり〜
御館の乱 - 平成の虚無僧一路の日記

★★★★

「天地人」10話目まで「篤姫」上回る高視聴率

★★NHK大河ドラマ『天地人』・話題★★★

★★★2010年NHK大河ドラマ「龍馬伝」★★★

NHK天地人」 : 大河ドラマ情報
大河ドラマ 天地人 http://www3.nhk.or.jp/taiga/

天地人 (NHK大河ドラマ) - Wikipedia

NHK大河ドラマ天地人」特集 - @niftyテレビ番組表

天地人直江兼続生誕の地 新潟県南魚沼市

直江兼続 - Wikipedia

直江兼続とは?

直江兼続

天地人直江兼続米沢.com




NHK 大河ドラマ 天地人 直江兼続 妻夫木聡 北村一輝
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2009年03月14日

NHK大河ドラマ『天地人』華姫(相武紗季)

「篤姫」超える!常盤貴子、登場シーン発案・常盤貴子、夫役の妻夫木は「尊敬できる」
「天地人」泣ける7歳子役が泣かせる演技

NHK大河「天地人」最終回は11月22日

NHK大河ドラマ天地人」1/4〜

華姫相武紗季):景勝の妹。景虎を心から愛し、信頼しあう夫婦となる。「御館の乱」では兄と対立することに。

景勝の妹。無邪気で天真爛漫な性格だが、一途なところは寡黙な兄・景勝とも共通する部分である。同年代の直江兼続とは、幼馴染のような関係。北条家から「人質」として送られてきた景虎に思いを寄せ、その一途な優しさと温かさで、閉ざされていた景虎の心を開き、信頼し合う夫婦となる。

「御館の乱」では、愛する夫と尊敬する兄とが争うという非常に苦しい立場に置かれてしまう
大河ドラマ 天地人

長瀬智也&相武紗季 ゴールイン間近!?

【連ドラ情報】新大河ドラマ『天地人』も好発進 多彩なジャンルがそろった冬ドラマ
09年NHK大河ドラマ『天地人』、新キャストに小栗、上地らの名前
posted by 天地人 at 16:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 『天地人』・キャスト
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