2009年11月15日

大坂の陣

NHK大河ドラマ天地人」原作・火坂雅志、脚本・小松江里子

大坂の役
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(大坂の陣 から転送)

大坂の役(おおざかのえき、慶長19年(1614年) - 慶長20年(1615年))は、江戸幕府が豊臣宗家(羽柴家)を滅ぼした戦いである大坂冬の陣(おおざかふゆのじん)と大坂夏の陣(おおざかなつのじん)をまとめた呼称。一般には「大坂の陣おおざかのじん)」とも呼ばれる。

豊臣秀吉死後の豊臣政権においては五大老の徳川家康が影響力を強め、慶長5年(1600年)に元五奉行の石田三成らが蜂起した関ヶ原の戦いで家康は東軍を指揮して三成ら西軍を撃破する。徳川家康は戦後処理や論功行賞を主導するなど実権を握った。この際、豊臣家の蔵入地(直轄地)を処分、豊臣家の所領は摂津・河内・和泉の約65万石程度まで削がれた

慶長8年2月12日(1603年3月24日)、家康は伏見城で征夷大将軍に就任、江戸幕府を開き、江戸城を始め普請事業を行うなど政権作りを始める。家康の政治目標は徳川家を頂点とした長期的かつ安定した政権をつくることであったとされ、徳川家の主君筋に当たり幕府のヒエラルキー社会では別格的存在となる豊臣家に対し、服属させるか、それが拒絶された場合には処分する事を考え始めたという。

同年7月、徳川秀忠の娘である千姫が秀吉の遺言に基づき子の豊臣秀頼に輿入した。

慶長10年(1605年)正月に家康が、つづいて2月に秀忠が伊達政宗ら奥羽の大名を加え10万とも16万ともいわれる大軍を率いて上洛した。同年4月16日、家康は将軍職を辞して将軍職を秀忠に譲る。これは天下にはもはや豊臣家ではなく徳川家が君臨することを示すものであるが、秀頼も順調に昇任を重ね、将軍就任時の秀忠の官位が内大臣であったのに対し、秀頼は右大臣になっていた。家康の将軍任官時には、同時に秀頼が関白に任官されるとする風聞が違和感なく受け止められており[2]、元服を前に秀吉の子として関白就任への可能性を残していた[3]秀頼の存在は無視できないものになっていた。

5月8日、秀頼に対して臣下の礼を取るように高台院を通じて秀頼生母の淀殿に要求するなど友好的対話を求めた。この時、淀殿は会見を拒否し両者の関係は悪化するが家康は松平忠輝を大坂に遣わし融和に努めている。

慶長16年(1611年)3月、後陽成天皇の譲位を受けての後水尾天皇即位に際して上洛した家康は二条城での秀頼との会見を要請する。秀頼の上洛を求める家康に対し反対もあったが、加藤清正や浅野幸長ら豊臣家恩顧の大名らの取り成しもあり会見は実現する[4]。翌4月、家康は在京の大名22名を二条城に招集させて幕府の命令に背かないという誓詞を提出させた。翌慶長17年(1612年)にも東北・関東などの大名65名から同様の誓詞をとっている。ただ、秀頼からは誓詞を提出させていない。

二条城の会談により両者の緊張は緩和したものと思われた。しかし、慶長16年(1611年)に浅野長政・堀尾吉晴・加藤清正が、18年に池田輝政・浅野幸長、19年に前田利長が亡くなると、豊臣家の孤立はいっそう強まり、その焦りからか幕府に無断で朝廷から官位を賜ったり[5]、兵糧や浪人を集めだし、更には前田家と誼を通じようとするなど、幕府との対決姿勢を前面に押し出し始めた。

豊臣家に対し融和策をとる徳川家も戦の準備は怠らず、攻城兵器として国友鍛冶に大鉄砲・大筒の製作を命じ、他にも石火矢の鋳造、イギリスやオランダに対し大砲・焔硝・鉛(砲弾の材料)の注文を行っている。また、家康は林羅山に湯武放伐論の是非を問うなど、主家である豊臣家を討つことの倫理的な問題をどう解決すべきか苦悩している。

こうしたなかで発生した方広寺鐘銘事件により、両家の対立は決定的となる(方広寺鐘銘事件の詳細は後述)。慶長19年(1614年)8月、豊臣家は鐘銘問題の弁明のために片桐且元を駿府へ派遣するが、家康は且元と面会していない。しばらくして大野治長の母の大蔵卿局が駿府へ派遣されたが、家康は大蔵卿局とは面会して丁重に迎えている。9月6日、家康は豊臣方の徳川家に対しての不信が問題の要因であるとし、崇伝と本多正純を使者として、大蔵卿局と且元とを同席させた上で、双方の親和を示す方策を講じ江戸に赴いて申し開きするよう要求したという。同日、家康は今度は西国の大名50名から誓詞をとっている。

且元は大坂へ戻り、9月20日、私案として以下の3つの妥協案を進言した。

秀頼を江戸に参勤させる
淀殿を人質として江戸に置く
秀頼が国替えに応じ大坂城を退去する
これを聞いた豊臣家では大坂城は秀吉公以来の居城であり、この要求を徳川家康の実質的の宣戦布告と受け取る。且元や弟の片桐貞隆など和平派の追放を決定し、決戦の準備に着手した。

10月1日片桐且元・貞隆は大坂城を退去した。相前後して、秀頼に近侍していた織田信雄、石川貞政なども退去。同日、家康は諸大名に大坂城攻撃を宣言した。

家康の天下普請
徳川家康は関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601年)に築城を始めた膳所城を皮切りに伏見城・二条城・彦根城・篠山城・亀山城・名古屋城の再建・造営や江戸城・駿府城・姫路城・上野城などの大改修など、諸大名を動員した建築事業、いわゆる天下普請を行った。これにより諸大名の財政を圧迫させて幕府への抵抗力を削減すると共に、豊臣氏への包囲網と西国大名の押さえとした。この普請には幕府からある程度の費用が与えられてはいたが、動員された大名は経済的に疲弊し、例えば佐賀藩では藩士の俸禄を一律三割減らすといった状態に陥っていた。名古屋城普請の際には豊臣家へも動員が命じられたが、淀殿がこれに拒否反応を示し、沙汰止みになっている。

秀頼の寺社造営
豊臣秀頼・淀殿は、豊臣秀吉没後から秀吉の追善供養として畿内を中心に寺社の修復・造営を行っている。主なもので東寺金堂・延暦寺横川中堂・熱田神宮・石清水八幡宮・北野天満宮・鞍馬寺毘沙門堂など、85件にものぼった。慶長13年(1608年)には、家康が方広寺大仏殿(秀吉が建立し慶長元年(1596年)に倒壊)の再建を勧めている。

これら多くの造営で秀吉が大坂城に遺した金銀は底をつくのではないかという憶測も流れたが、実際には全く困窮していなかった。大坂の役で多くの戦費を消費したにもかかわらず、大坂城落城後、約2万8千枚の金(約28万両)と約2万4千枚の銀(約24万両)が幕府に没収されている。

方広寺鐘銘事件

方広寺の鐘銘慶長19年(1614年)、慶長14年から豊臣家が再建していた京都の方広寺大仏殿はほぼ完成し、4月には梵鐘が完成した。総奉行の片桐且元は、梵鐘の銘文を南禅寺の文英清韓に選定させた。

且元は駿府の家康への銘文の選定や大仏開眼供養の導師や日時の報告などを逐次行い上棟は間近であったが、7月29日、家康は家臣の本多正純を通じて、梵鐘銘文の文中に不吉な語句があるとして、大仏供養を延期させた。家康は五山の僧(金地院崇伝ら)や林羅山に鐘銘文を解読させた。崇伝らは、文中に「国家安康」「君臣豊楽」とあったものを、「国家安康」は家康の諱を分断し、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願い徳川家に対する呪詛が込められていると断定した。また、林羅山は「右僕射源朝臣家康」(右僕射は右大臣の唐名)を「家康を射る」ものであると解釈している。

この事件は、豊臣家攻撃の口実とするため、家康が崇伝らと画策して問題化させたものであるとの考え方が一般的である。しかし、清韓自身は家康の諱を「かくし題」とした意識的な撰文である(「国家安康と申し候は、御名乗りの字をかくし題にいれ、縁語をとりて申す也」)と弁明しており、五山の僧の答申はいずれも諱を避けなかったことについて問題視している[6]。当時、基本的に諱で呼ぶ事が出来るのは両親、主君そして敵であり、通常は名字+官職名もしくは通名等で呼び諱で呼ぶことは非常に無礼なことであった事を考えると、家康側が全面的にこじつけたものではなく、豊臣側の軽率な行為が付け入る隙を与えたという性格の方が強い。

大坂冬の陣

冬の陣布陣図(慶長19年12月)拡大 豊臣方の準備 [編集]
慶長19年(1614年)10月2日、豊臣家では旧恩ある大名や浪人に檄を飛ばし戦争準備に着手した。同日に兵糧の買い入れを行うとともに、大坂にあった徳川家をはじめ諸大名の蔵屋敷から蔵米を接収した。秀吉の遺した莫大な金銀を用いて浪人衆を全国から集めて召抱えたが、諸大名には大坂城に馳せ参じる者はなく、ただ福島正則が蔵屋敷の兵糧を接収するのを黙認するにとどまった[7]。また籠城のための武器の買い入れ、総構の修理・櫓の建築なども行った。

集まった浪人を併せた豊臣方の総兵力は約10万人で、著名な浪人として真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、後藤基次(又兵衛)、毛利勝永、明石全登(彼らは五人衆と呼ばれた)、塙直之、大谷吉治などがいた。彼らは徳川家への復讐に燃える者、戦乱に乗じて一旗上げようとする者などで、歴戦の勇士が多く士気も旺盛だったが、いかんせん寄せ集めに過ぎないため統制がなかなかとれず、実際の戦闘では作戦に乱れが生じる元ともなった。

豊臣軍内部は二つに割れていた。まず、豊臣家宿老の大野治長を中心とする籠城派。二重の堀で囲われさらに巨大な惣堀、防御設備で固められた大坂城に立て籠もり、徳川軍を疲弊させて有利な講和を引き出そうという方針である。これに対し浪人衆の真田信繁は、まず畿内を制圧し、近江国の瀬田川まで軍を進め、ここで関東から進軍してくる徳川軍を迎え撃ち、足止めしている間に諸大名を味方につけ、その見込みが無いときに初めて城に立て籠もって戦う、二段構えの作戦を主張した。後藤基次・毛利勝永も真田案を元に伊賀国と大津北西にも兵を送り、敵を足止めすべしと主張して対立したが、結局、大野治長ら豊臣家臣の案である、周辺に砦を築きつつ(警戒・連絡線を確保する為)、堅固な大坂城に籠城する作戦が採用された。[8]

同月、豊臣方は淀川の堤を切って大坂一帯を水没させ、大坂城を浮城にしようとしたという。しかし幕府方の本多忠政・稲葉正成などにより阻止され、被害は行軍に支障をきたす程度にとどまった。

幕府軍の出陣
10月11日、家康は軍勢を率いて駿府を出発した。この開戦が決まると、家康はいつになく若やいだと本多正純は記している。23日に二条城に入り、同日秀忠が6万の軍勢を率い江戸を出発した。家康は25日に藤堂高虎・片桐且元を呼び、先鋒を命じている。 幕府方の動員した兵力は約20万に上り、この大軍が大坂に集結したため少なからず混乱が起こった。ただし福島正則や黒田長政らは江戸城に留め置きとされた。豊臣家恩顧の者たちが豊臣方に寝返るのを恐れたといわれるが、関ヶ原の戦いで東軍勝利のために尽力した黒田長政に関してこれは当てはまらない。なお、江戸城留め置きとされた大名も、その子が大坂に参陣している。

11月15日、家康は二条城を出発し、奈良経由で大坂に向かった。18日、家康は先着していた秀忠と茶臼山陣城にて軍議を行っている。

緒戦
慶長19年(1614年)11月19日、戦闘は木津川口の砦においてはじまる(木津川口の戦い)。この後11月26日には鴫野・今福で(鴫野・今福の戦い)、11月29日には博労淵、野田・福島において激しい戦闘が行われた(博労淵の戦い、野田・福島の戦い)。数ヶ所の砦が陥落した後、11月30日に豊臣軍は残りの砦を破棄、大坂城に撤収する。

攻囲戦
豊臣方が籠城した大坂城を徳川方は約20万の軍で完全に包囲した。家康は12月2日、茶臼山を[9]、以降は各将の陣を視察し、仕寄(攻城設備)の構築を命じている。4日より各隊は竹束・塹壕・築山などの仕寄の構築を行いつつ大坂城に10町から5・6町まで接近していった[10]。これ以前、家康は10月22日に命じた方広寺の炉で作成させた鉄盾を各将に配布している[11]。

この接近時に豊臣方の挑発に乗って始められた、包囲戦における最大の戦いである真田丸・城南の攻防戦(12月3日、4日)では、豊臣方が徳川軍を撃退、諸隊に大きな損害を与えた。秀忠は同日4日に岡山に着陣し、家康が講和を策している事を知り家康に総攻撃を具申するが、家康は敵を侮る事を戒め戦わずに勝つ事を考えよとこれを退けている[12]。5日、家康は住吉から茶臼山に本陣を移し[13]、8日までに到着した部隊にも仕寄の構築を命じている。

9日より家康は大坂城に対する攻城を本格化させる。先月23日[14]より伊奈忠政・福島忠勝・毛利秀就・角倉素庵に命じて建設していた淀川の流れを尼崎に流す長柄堤がこの日竣工し、大和川がある為干上がる事はなかったが川の深さは膝下まで下がる[15]。本工事終了後、続いて大和川の塞き止めも行っている。また、諸隊に命じて毎夜三度(酉・戌・寅の刻)、鬨の声を挙げて鉄砲を放たせ、敵の不眠を誘っている(この鬨の声は京まで届いた)[16]。この頃より大坂城総構への南方からの大砲射撃も本格化し、幕府方の仕寄は堀際まで松平忠明隊は20から30間、藤堂隊は7間に近接している[17]。

10日には投降を促す矢文を送り[18]、11日には甲斐や佐渡の鉱夫を動員して南方より土塁・石垣を破壊する為の坑道掘削を始めた[19]。13日、家康は大名一人につき50本の熊手付き梯子を配っている[20]。更に、船場の堀の埋め立ても命じた[21]。

そして16日から全軍より一斉砲撃が始められる[22]。北方の備前島だけで大筒100門と石火矢が本丸北側の奥御殿に、南方の天王寺口からはこれまでの総構から本丸南方の表御殿千畳敷に目標を変更した砲撃が和議締結まで打ち込まれ続けた。この砲撃では国友製3貫目の大砲が用いられており、また6月頃にイギリスより購入したカルバリン砲4門、セーカー砲1門や7日前に兵庫に到着したオランダ製4・5貫目の大砲12門[23]も含まれていると思われる。この砲声は京にも届き、その音が途切れることはなかった。

これに対し豊臣方は近接する徳川方に激しく銃撃し、竹束のみの時は一手に付き300から500人の死傷者が出たが、相手が築山・土塁を築くと鉄砲の効果は激減する[24]。また砲撃に対抗してこちらも砲撃したり、塙直之が蜂須賀至鎮に夜襲をしかけ戦果をあげたが(17日)、劣勢であることは否めず、和議に応ずることになる。

和議
徳川方は豊臣方の買占めによる兵糧不足があり[25]、また真冬の陣でもあったため、12月3日より織田有楽斎を通じて豊臣方との和平交渉を行っている。8・12日にも有楽斎と治長が本多正純、後藤光次と講和について書を交わしている。15日には淀殿が人質として江戸に行く替わりに、篭城浪人の為の加増を条件とした和議案が豊臣方より出されるが、家康はこれを拒否する。

豊臣方も同じく兵糧に加え弾薬の欠乏や徳川方が仕掛けた心理戦、大砲で櫓・陣屋などに被害を受けて将兵は疲労し、また豊臣家で主導的立場にあった淀殿も本丸への砲撃で身近に被害が及び、態度を軟化させて和議に応じたという(16日)。

また、朝廷から後陽成上皇の命により、17日に広橋兼勝と三条西実条を使者として家康に和議を勧告した。家康はこれも拒否し、あくまで徳川主導で交渉を進めた。

交渉は18日より徳川方の京極忠高の陣において、家康側近の本多正純、阿茶局と、豊臣方の使者として派遣された淀殿の妹である常高院との間で行われ、19日には講和条件が合意、20日に誓書が交換され和平が成立した。同日、家康・秀忠は諸将の砲撃を停止させている。

講和内容は豊臣家側の条件として

本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋める事。
淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出す事。
が提出され、これに対し徳川家が

秀頼の身の安全と本領の安堵。
城中諸士についての不問。
を約すことで、和議は成立している。この他、秀頼・淀殿の関東下向を行わなくて良い事も決められた(但し、二の丸の破壊をしなくても良いという史料もある[26])。

堀の埋立
和議条件の内、城の破却と堀の埋め立ては二の丸が豊臣家、三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決められていた。この城割(城の破却)に関しては古来より行われているが、大抵は堀の一部を埋めたり、土塁の角を崩すといった儀礼的なものであった。

しかし、徳川側は徹底的な破壊を実行する。松平忠明、本多忠政、本多康紀を普請奉行とし、家康の名代である本多正純、成瀬正成、安藤直次の下、攻囲軍や地元の住民を動員して突貫工事で外堀を埋めた後に、一月より二の丸も埋め立て始めた。二の丸の埋め立てについては相当手間取ったらしく周辺の家・屋敷を破壊してまで埋め立てを強行した。講和後、駿府に帰る道中に家康は埋め立ての進展について何度も尋ねている。工事は23日には完了し、諸大名は帰国の途に就いた。

この間、豊臣方は二の丸の埋め立ては当方の受け持ちであると抗議したが、徳川方は「工事が進んでいないので、手伝う」といいそのまま、埋め立てを行った。この際、門や櫓も徹底的に破壊されている。

内堀まで埋め立てることは当初からの和議の条件であった。そのため、豊臣方の制止を無視して「だまし討ち的に」内堀まで埋め立てたとする通説は俗説であるが、以上のような経緯が誇大に伝えられた結果と考えることができる。

またこの間、徳川方は豊臣方が浪人が退城しない事について不審感を抱いている。これは徳川方が浪人については助命という意味で不問にしたのに対し、豊臣方についてはこのまま召抱えても良いという解釈の差があったと思われる。

大坂夏の陣
和平成立後、家康は京都から駿府へ戻り、秀忠も伏見に戻ったが、一方で国友鍛冶に大砲の製造を命じるなど、戦争準備を行っている。慶長20年(1615年)3月15日、大坂に浪人の乱暴・狼藉、堀や塀の復旧、京や伏見への放火の風聞といった不穏な動きがあるとする報が京都所司代板倉勝重より駿府へ届くと、徳川方は浪人の解雇、豊臣家の移封を要求する。

4月1日、家康は畿内の諸大名に大坂から脱出しようとする浪人を捕縛すること、小笠原秀政に伏見城の守備に向かうことを命じた。 4月4日、家康は徳川義直の婚儀のためとして駿府を出発、名古屋に向かった。翌5日に大野治長の使者が来て豊臣家の移封は辞したいと申し出ると、常高院を通じて「其の儀に於いては是非なき仕合せ」(そういうことならどうしようもない)と答え、4月6日および7日に諸大名に鳥羽・伏見に集結するよう命じた。

家康が名古屋城に入った4月10日、秀忠は江戸を出発している。4月12日、名古屋城にて徳川義直の婚儀が行われ、家康は18日に二条城に入った。このころ秀忠は藤堂高虎に対し、自分が大坂に到着するまで開戦を待つよう藤堂からも家康に伝えてくれと依頼している。

4月21日、秀忠は無事二条城に到着し、翌22日、家康と秀忠は本多正信・正純父子、土井利勝、藤堂高虎らと軍議を行った。この時の徳川方の戦力は約15万5千。家康はこの軍勢を二手にわけ、河内路及び大和路から大坂に向かうこと、同時に道路の整備、山崎などの要所の警備を行うことを命じた。この二手の他、紀伊の浅野長晟に南から大坂に向かうよう命じている。

5月5日、家康は京を発した。その際、自軍に対し「三日分の腰兵糧でよい」と命じたという。

豊臣方では、4月9日に交渉にあたっていた大野治長が城内で襲撃される事件が起こる。交渉が決裂し、再びの開戦は避けられないと悟った豊臣方は、4月12日に金銀を浪人衆に配り、武具の用意に着手した。また主戦派の浪人たちが埋められた堀を掘り返したりしている。 和議による一部浪人の解雇によりこの時の豊臣家の戦力は7万8千に減少し、さらに丸裸にされた大坂城では籠城戦は不利と判断したとされ、積極的に討って出る作戦を採用している。 なおこの頃、織田有楽斎は豊臣家に見切りを付けて、大坂城を退去している。

樫井の戦い
豊臣方は大野治房の一隊に暗峠を越えさせて、4月26日に筒井定慶の守る大和郡山城を落とし、付近の村々に放火。28日には徳川方の兵站基地であった堺を焼き打ちする。治房勢は、4月29日には一揆勢と協力しての紀州攻めを試みるが、先鋒の塙直之、淡輪重政らが単独で浅野長晟勢と戦い(樫井の戦い)討死してしまう。その後、大野治長らは浅野勢と対峙しつつ、5月6日まで堺攻防戦を行う。

道明寺・誉田合戦
5月6日、大和路から大坂城に向かう幕府軍35,000を豊臣勢が迎撃した道明寺・誉田合戦が起こる。寄せ集めの軍勢である豊臣方は緊密な連絡を取ることができず、後藤基次隊2,800は単独で小松山に進出してしまい、伊達政宗、水野勝成ら2万以上の敵勢に集中攻撃を受け、奮戦するも壊滅、基次は討死した。次いで到着した明石全登、薄田兼相ら3,600の兵も小松山を越えた徳川軍と交戦し、薄田兼相らが討死した。

さらに遅れて真田信繁、毛利勝永ら12,000の兵が到着し、真田隊が伊達政宗隊の先鋒片倉重長隊の進軍を押し止めた。しかし豊臣方は八尾・若江での敗戦の報を受け、残兵を回収して後退。幕府方も連続した戦闘に疲弊したため、追撃を行わなかった。

八尾・若江合戦
同日、木村重成の6,000の兵と長宗我部盛親、増田盛次ら5,300の兵が、河内路から大坂城に向かう徳川本軍12万を迎撃した八尾・若江合戦が起こっている。まず長宗我部隊が霧を隠れ蓑に藤堂高虎隊5,000を奇襲し、藤堂一族その他多数の首を獲ったが、幕府方の援軍に阻まれ、後退中に追撃を受け壊滅。木村重成も藤堂隊の一部を破った後、井伊直孝隊3,200らと交戦、激戦の末に討死した。

豊臣方は意地を見せたが、大勢は幕府方優勢で、いよいよ大坂城近郊に追い詰められる。

天王寺・岡山合戦
夏の陣(天王寺・岡山合戦)布陣図(慶長20年5月7日)拡大5月7日、最後の決戦のため豊臣軍は現在の大阪市阿倍野区から平野区にかけて迎撃態勢を構築した。

天王寺口は真田信繁、毛利勝永など14,500。 岡山口は大野治房ら4,600。 別働隊として明石全登300、全軍の後詰として大野治長・七手組の部隊計15,000?が布陣。

これに対する幕府方の配置は、大和路勢および浅野長晟40,000を茶臼山方面に、その前方に松平忠直15,000が展開した。 天王寺口は本多忠朝ら16,200が展開し、その後方に徳川家康15,000が本陣を置く。 岡山口は前田利常ら計27,500。その後方に近臣を従えた徳川秀忠23,000が本陣を置いた。

正午頃に開始された天王寺・岡山合戦は戦国の世最大にして最後の戦いであり、これまでに例を見ない兵力と火力が集中し、大激戦となった。豊臣方の真田信繁・毛利勝永・大野治房などの突撃により幕府方の大名・侍大将に死傷者が出たり、家康・秀忠本陣は大混乱に陥るなどしたが、兵力に勝る幕府軍は次第に混乱状態から回復し態勢を立て直し、豊臣軍は多くの将兵を失って午後三時頃には壊滅。絶望的な状況の中、唯一戦線を維持し続けた毛利勝永の指揮により、豊臣軍は城内に総退却した。

終局
本丸以外の堀を埋められ、裸同然となっていた大坂城は、もはや殺到する徳川方を防ぐ術がなかった。真田隊を壊滅させた松平忠直の越前勢が一番乗りを果たしたのを始めとして徳川方が城内に続々と乱入し、遂には大坂城本丸内部で内通者によって放たれた火の手が天守にも上がり、5月7日深夜に大坂城は陥落した。その燃え上がる炎は夜空を照らし、京からも真っ赤にそまる大坂の空の様が見えたという。

翌日、脱出した千姫による助命嘆願も無視され、秀頼は淀殿らとともに籾蔵の中で勝永に介錯され自害した[27]。

冬の陣では出陣させるのは譜代のみに限ろうと考えていた徳川家康は、この夏の陣においては豊臣恩顧の大名に敢えて大坂を攻めさせることにより、将来的に徳川家に掛かってくる倫理的な非難を回避しようとしたとされている(江戸時代に徳川家が豊臣家を滅ぼしたことに対する道徳的議論が起こることはなかった。むしろ徳川家の家臣において、敵将に対する武士道的賞賛が盛んに行われた)。

現在、大阪城天守閣で所蔵されている、自らも大坂の役に参戦した黒田長政が絵師を集めて描かせたとされる屏風絵「大坂夏の陣図屏風」の左半分には、徳川方の雑兵達が大坂城下の民衆に襲い掛かり、偽首を取る様子や略奪を働き身包みを剥がすところ、さらには川を渡って逃げる民衆に銃口を向ける光景、そして女性を手篭めにする様子などが詳細に描かれている。また、記録によれば、一万数千の首の内、偽首を取られるなど殺害された民衆が数多くおり、生き残ったものの奴隷狩りに遭った者の数は大人から年端の行かぬ子供まで数千人に達したとされる。

ある町人が残した記録「見しかよの物かたり」には

男、女のへだてなく
老ひたるも、みどりごも
目の当たりにて刺し殺し
あるいは親を失ひ子を捕られ
夫婦の中も離ればなれに
なりゆくことの哀れさ
その数を知らず
と、その悲惨さが語られている。[28]

諸大名の対応
島津氏は秀頼からの書状に対し「豊臣家への奉公は一度済んだ」と返事したが、徳川方としての出陣は冬の陣・夏の陣とも結果的にかなわなかった(夏の陣では、鹿児島を発ち平戸に到着した時に大坂の役の情報を聞いて引き返している)。これは当時、藩主島津忠恒が進めていた藩政改革がうまく行かず、家臣団の統制すらままならなかったからであるが、島津の不参加は一時「島津謀反」の噂を引き起こし、小倉藩の監視を受ける羽目となった。この一件以後、島津氏は藩政改革を一気に推し進め、また幕府の行う事業や島原の乱への出兵など積極的にこなしていった。

戦後処理
秀頼の子の国松は潜伏している所を捕らえられて処刑、また娘の奈阿姫は僧籍に入ることで助命された。徳川家光の代には秀吉の墓まで幕府によって暴かれ、長宗我部盛親はじめ残党の追尾は10年以上に亘って行われた(徳川幕府転覆を企てた由井正雪の片腕とされた丸橋忠弥は長宗我部盛澄といい長宗我部盛親の側室の次男という)。盛親以外には、細川興秋は父・細川忠興から自刃を命じられ、増田長盛は盛次の罪を背負う形で配流先の岩槻で、また古田織部は国松を匿った疑いでそれぞれ自刃した。明石全登の行方は定かではないが、その息子・明石小三郎は寛永10年(1633年)に薩摩で捕まっている。

戦後、大坂城には松平忠明が移り、街の復興にあたった。復興が一段落すると忠明は大和郡山に移封され、以降大坂は将軍家直轄となり、『天下の台所』と呼ばれる商業の街になる。幕府は大坂城の跡地に新たな大坂城を築き、西国支配の拠点の一つとした。

一方、松平忠輝は総大将を務める天王寺合戦で遅参したことが理由の一つとなり、翌年に改易となった。松平忠直は、大坂城一番乗りの褒賞が大坂城や新しい領地でもなく「初花肩衝」と従三位参議左近衛権中将への昇進のみであったことを不満としており、後に乱行の末改易となった。

この戦いを境に戦国時代より続いた大規模な戦闘が終焉した。これを元和偃武と言う。

伝承
真田信繁(幸村)
大坂夏の陣での真田信繁(幸村)の活躍は江戸時代でも歌舞伎などで演じられ、錦絵に描かれるなど、徳川政権下でも後世へ語り継がれた。特に、江戸中期頃に書かれた「真田三代記」は信繁のみならず真田一族の名を高めるのに貢献した。

天王寺合戦は島津家の「薩藩旧記」で「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由、徳川方、半分敗北」、「家康が切腹も考えるほどだった」などと記された。 また家康本陣を守備していた藤堂高虎の一代記である高山公実録にも「御旗本大崩れ」と記され、藤堂勢は一応の応戦はしたものの、真田隊の勢いの前では効果無く、ほどなく家康は本陣を捨ててしまい、高虎自身も、家康の安危を確認できなかったと振り返っている。後に真田隊の猛攻を恐れ、家康を残して逃走した旗本衆の行動を詮議したという「大久保彦左衛門覚書」(三河物語)も残っている。

しかし、天王寺・岡山の戦いで活躍したのは、真田信繁だけではなく毛利勝永、大野治房らも活躍している。真田信繁は徳川軍の中を敵中突破しただけであり、毛利勝永と大野治房は、自軍の数倍もの徳川軍に正面から当たり、壊滅させている。 また、真田信繁が強行突破できたのは、快進撃を続けていた毛利勝永隊に徳川軍が集中していたのも一因である。さらに、真田隊が強行突破できたキッカケとなったのは、毛利隊の快進撃を何とか防ごうと、松平隊の背後にいた浅野隊が毛利隊に当たろうとし、その動きを松平隊が「浅野隊が寝返った」と思い、大混乱したことでもある。

真田隊や毛利隊がどれだけ家康自身に迫ったのかは諸説あり、そのため後世の錦絵や再現イラスト、歴史漫画では様々な想像図が描かれている。また、家康の周囲にいた人間も小栗又一、大久保彦左衛門など本によって様々である。

信繁自刃についても諸説があるが、一般的には「安居神社で石畳に腰をかけているところを討たれた」と言われている。安居神社は天王寺公園・茶臼山の北にある一心寺の北にある。これは明治時代に旧帝国陸軍参謀本部が制定したものとされ、安居神社にある「眞田幸村戦死跡之碑」には戦死の地の選定に関しての参謀本部の関与を示す一文が刻まれている。

信繁を討った松平忠直隊鉄砲組頭西尾宗次は信繁を討ったときを誇張して報告した為に、家康は宗次の「信繁を討ち取った」という報告を真に受けようとしなかったとも言われている。宗次は後に、地元の孝顕寺(福井市)に「真田地蔵」を建立して信繁の菩提を弔っている。

秀頼生存伝承
鹿児島県には、「信繁は合戦で死なず、山伏に化けて秀頼·重成を伴って谷山(鹿児島市)に逃げてきた」という俗説がある。京都大坂では陣の直後あたり、「花の様なる秀頼様を、鬼の様なる真田がつれて、退きものいたよ鹿児島へ」という童歌が流行ったという。

家康討死伝承
「家康は信繁勢に傷つけられ、堺のさる寺(南宗寺)に逃げ込みそこで亡くなった」という俗説があり、南宗寺境内には「家康の墓」も現存している。

大坂城攻城法伝承
大坂冬の陣で家康は一旦和睦し堀を埋め立てた後に再度、兵を挙げる事で大坂城を落としているが、この方法は家康が存命中の秀吉に直接聞いたものという逸話がある。

大坂の役 - Wikipedia


posted by 天地人 at 07:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | 大坂の陣
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